没後の顕彰

 戦後間もなく、大蔵大臣で民俗学者でもあった渋沢敬三は昭和天皇から熊楠の逸話めいたものを聞かされた。1929年の田辺での進講の時の話で「南方には面白いことがあったよ。長門(注、御召艦)に来た折、珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいじゃないか」というものだった。

 その頃、渋沢はミナカタ・ソサエティを結成して顕彰事業に着手していた。「ミナカタ・クマグス展」の開催と著作集の刊行であった。展覧会は1951年東京・大阪をはじめ全国の4ヵ所で開かれ、同時に『南方熊楠全集』(全12巻)も翌年にかけて出版された。

 1962年5月、昭和天皇は南紀に行幸され、宿舎から雨に煙る神島を目のあたりにされた。33年前、熊楠の案内で神島に変形菌を探られた日も雨であった。「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」―翌年1月1日の新聞に発表されたこのお歌が、その後の熊楠顕彰に大きなはずみとなり、1965年には白浜町に南方熊楠記念館が開館。熊楠の超人的な足どりが人びとの前にようやく明らかになった。

神島歌碑(写真当館)
熊楠はご進講の翌年(1930年)、神島の昭和天皇上陸地点に自詠自筆の歌が刻んだ歌碑を建立した。
「一枝も こゝろして吹け 沖つ風 わか天皇(すめらぎ)の めてましゝ森そ」

 

昭和天皇歌碑(写真当館)
番所山の南方熊楠記念館前に立つ昭和天皇の歌碑
昭和天皇が雨にけふる神島を見たのは、ここではなく田辺により近い古賀浦のホテルである。

 田辺市では没後50年にあたる1991年に向かって始まった南方ブームから、熊楠顕彰の気運が高まり、南方熊楠邸保存顕彰会が組織された。また、熊楠の長女にあたる南方文枝の依頼から始まった邸書庫の蔵書・資料類の調査は顕彰会が中心となり、研究者により引き続き進められることとなった。2000年に文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に遺贈され、2006年には旧邸隣地に南方熊楠顕彰館がオープンした。

南方熊楠顕彰館(写真当館)
熊楠研究と情報発信の拠点

 この間、熊楠の基礎資料の整備が進み、『南方熊楠邸蔵書目録』『南方熊楠邸資料目録』が完成、またさまざまなかたちで資料のデジタル化・データベース化が進められてきた。今後は未刊行の部分の多い日記や書簡など重要資料の翻刻が、顕彰館を中心におこなわれようとしている。基本資料が整備されるにつれ、熊楠をより多角的に分析するような研究もさかんに行われるようになった。南方熊楠の学問は、21世紀において大きな可能性をもつ人類の知的財産になろうとしているのである。

南方熊楠邸蔵書目録と南方熊楠邸資料目録(写真当館)

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