南方熊楠略年譜

    ■幼少期
    1867(慶応3)年5月18日(旧暦4月15日)、和歌山城下橋丁(現和歌山市橋丁)に父南方弥兵衛、母すみの二男として生まれる。
    1875(明治8)年『和漢三才図会』、『本草綱目』、『諸国名所図会』、『大和本草』などを筆写する。
    ■東京時代
    1883(明治16)年和歌山中学校(現和歌山県立桐蔭高校)を卒業し、神田の共立学校(現開成高等学校)に入学する。
    1884(明治17)年9月、東京大学予備門(現東京大学)に入学する。
    この年、父が紀州侯のもみ倉を譲りうけ、酒造業(現株式会社世界一統)を創業。
    1886(明治19)年2月、東京大学予備門を退学し、同年12月渡米する。
    ■アメリカ時代
    1887(明治20)年1月、サンフランシスコに上陸。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月、イーストランシングのミシガン州立農学校(現ミシガン州立大学)に入学する。※正確にはランシングではなくイーストランシングである。
    1888(明治21)年11月、同校を退学し、アナーバーに移る。以後同地に滞在、動植物の観察と読書に励む。
    1889(明治22)年留学生仲間と回覧新聞『大日本』や『珍事評論』を発行。10月、この頃読んだスイスの博物学者ゲスナーの伝記に感銘を受ける。
    1890(明治23)年弟常楠が実家の事業を受け継ぐ。
    1891(明治24)年4月、アナーバ―を発ち翌月ジャクソンビルに到着。8月~翌年1月まで、キーウェストを経てキューバに渡り、植物採集を続ける。
    ■ロンドン時代
    1892(明治25)年9月、ニューヨークからロンドンへ渡り、父の訃を知る。
    1893(明治26)年9月、大英博物館の利用の便を得る。10月、天文学に関する論文「東洋の星座」を『ネイチャー』に寄せる。
    1895(明治28)年4月、大英博物館閲覧室に利用申請書を提出、蔵書の筆写(「ロンドン抜書」)を開始する。1900年に帰国するまで筆写したノートは52冊に及ぶ。
    1897(明治30)年孫文と交流を深める。11月、大英博物館閲覧室で殴打事件を起こす。
    1898(明治31)年12月、大英博物館閲覧室で監督官と口論、大英博物館から追放、以後ロンドン自然史博物館、南ケンジントン博物館(現ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)を中心に抜書を続ける。
    1899(明治32)年6月、『ノーツ・アンド・クエリーズ』に寄稿を始める。
    ■那智時代
    1900(明治33)年9月、生活の窮迫から帰国の途につく。10月、神戸に上陸。
    1901(明治34)年2月、孫文が和歌山に来訪、歓談する。10月、南方酒店の支店があった勝浦村に移る。
    1902(明治35)年1月、植物採集のため、那智村(勝浦村とともに現那智勝浦町)に移る。
    ■田辺時代
    1904(明治37)年7月、『東洋学芸雑誌』へ寄稿。以後国内雑誌へも寄稿する。10月、那智を発ち田辺へ移り、中屋敷町多屋家の持家を借りる。
    1906(明治39)年鬪雞神社宮司田村宗造四女松枝と結婚する。
    1907(明治40)年2月、この頃から抜書を始め、全61冊に及ぶ(「田辺抜書」)。6月、長男熊弥生まれる。
    1909(明治42)年9月、神社の合祀と神林伐採に反対する意見を『牟婁新報』に発表、神社合祀反対運動を始める。
    1910(明治43)年7~8月、中屋敷町藤木八平の別宅へ転居する。8月、神社合祀を推進する県吏に面会を求め講習会場に乱入、家宅侵入の容疑で拘引される。 9月、『牟婁新報』掲載の「人魚の話」が風俗壊乱に問われる。
    1911(明治44)年長女文枝生まれる。
    1914(大正3)年1月、『太陽』に「虎に関する史話と伝説」を発表、以後1923年まで毎年十二支に関する論考を寄稿。いわゆる「十二支考」である。
    1916(大正5)年4月、常楠の出資で中屋敷町36番地に敷地約400坪の家を求め、終生住む。7月、日記に「庭上の柿の生樹の皮に付る」変形菌(Myc.504)を採集し「少量にて異品なり」と記す。ミナカテラ・ロンギフィラと思われる。
    1918(大正7)年3月、貴族院で神社合祀廃止が決議。
    1921(大正10)年1月、グリエルマ・リスターより、変形菌Myc.504が新属新種であり、ミナカテラと命名したと知らせを受ける。6月、南方植物研究所設立趣意書作成、募金開始。
    1925(大正14)年2月、研究資金募集のため矢吹義夫の求めに応じ長文の「履歴書」をしたためる。
    1926(大正15・昭和元)年『南方閑話』、『南方随筆』、『続南方随筆』を刊行する。11月、門人小畔四郎らと協力して変形菌標本90点を摂政宮(のちの昭和天皇)に進献。
    ■晩年
    1929(昭和4)年6月1日、南紀行幸の昭和天皇に進講し、変形菌110点を進献する。
    1930(昭和5)年6月1日、行幸を記念して神島に自詠自筆の行幸記念碑を建立する。
    1932(昭和7)年11月、小畔四郎と協力、変形菌標本30点を進献。
    1935(昭和10)年12月24日、熊楠や地域住民の尽力により、神島が国の天然記念物に指定される。
    1941(昭和16)年12月29日、74歳で永眠。真言宗高山寺に葬られる。
    2017(平成29)年生誕150周年に際し、田辺市から名誉市民の称号を贈られる。

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