民俗学

 かつてロンドンで民俗学・人類学における名だたる学者たちと「鶤鳳の間に起居した」誇りは、帰国後、熊野という辺境にあっても失われず「未見未聞のことを新たに見出し、考え出すには」田舎ぐらしも決して捨てたものではないと、熊楠は植物調査のかたわら、見聞した熊野の伝承や風俗を記録し、血肉化していった。

 田辺に来住した当初(1904年から1916年頃まで)熊楠はよく銭湯へ通った。

 当時の日記には「夜10時過ぎ油岩を訪う。12時、今福湯に入り帰る」と記すことが多いが、油岩は、生花の師匠広畠岩吉の家号で、熊楠も「歩く百科事典」とほめるほど諸芸に通じ、豊富な話題をもっていた。話し好きなところから油岩の家は老人連の会所のようにもなっていたので熊楠は銭湯の行き帰りにはかならず顔を出していた。今福湯は、油岩から2、3軒おいたところで、夜が更けると、遅くまで仕事をした職人たちがどやどやと繰り込んでくる。熊楠は、洗い場に腰を据えて、入れ替わりやってくる職人たちをつかまえて話し込む。面白い話にぶつかると、次の晩も、もう一度聞き直して齟齬がないか確かめる。こうしてどんどん聞き書きノートをふくらませていくのだった。

田辺抜書(当館蔵)
田辺定住後の1907年2月から筆写をはじめ、1934年まで61冊を成した。

 こうした熊楠に1通の書簡が届けられた。柳田國男からで「平日深く欽仰の情を懐きおり候ところ……突然ながら一書拝呈仕り候」と辞を低くして「山男」に関する熊野の伝承の提供を請うものだった。『東京人類学会雑誌』(1911年2月刊)に、熊楠が投じた「山神オコゼ魚を好むということ」が機縁となっての文通で、以後頻繁な書簡の往復を重ねる。そのうち熊楠から「欧米各国みなフォークロア・ソサエティーあり、わが国にも設立ありたきものなり」と呼びかけ、柳田がそれに応えて、草創期の日本民俗学は大きな一歩を踏み出すのであった。

柳田國男からの最初の来簡(当館蔵)
1911年3月19日付。

 当時、熊楠の学問に注目した人に高木敏雄、宮武外骨、三田村鳶魚、本山桂川、三村竹清、折口信夫、岡茂雄らがおり、熊楠はその時々に原稿を寄せて、執筆誌は40数種におよんでいる。

熊楠が投稿した雑誌の一部(当館蔵)

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