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在英時代(1892年~1900年)

 たえず各地を転々とする熊楠への書信は、アメリカでは日本領事館がそのあて先に使われ、イギリスでは、横浜正金銀行倫敦支店が利用されることが多かった。

 父は1892年8月8日に死去したが、熊楠がその報を受け取ったのはロンドン上陸直後の9月28日である。兄や弟の前では、熊楠に対して厳しい注文をつける父であったが、陰に回って庇護を惜しまなかった父だけに、その死の知らせは熊楠を暗澹とさせた。生前何もむくいることのなかった父のために、このロンドンで精いっぱい学問を吸収したい、一人心にそう誓うのだった。在英7年余、その大半は大英博物館での読書と筆写に明けくれ、当時のノート「ロンドン抜書」52冊、1万800ページを成したことは父へのそうした思いがこめられているのであろう。ロンドンに着いて5年目には母の訃報も受け取っている。

ロンドン抜書(当館蔵)

 そのような中で、熊楠は大英博物館を拠点に水を得た魚のように学問活動の場を広げていった。1893年に大英博物館副館長格であったフランクスに見出された熊楠は、その助手のリードに日本語や中国語に関する助言を依頼され、東洋美術部に出入りするようになった。1895年には博物館中央にある円形ドーム型大閲覧室で「ロンドン抜書」の作成を開始、また東洋書籍部のダグラスとも親交を持った。

大英博物館の円形閲覧室(八坂書房南方熊楠アルバムより)

 これと並行するように、熊楠は処女作の「東洋の星座」を皮切りに、当時科学雑誌としての権威を高めつつあった『ネイチャー』誌にたびたび投稿し、東洋にも固有の科学思想があったことを紹介し続けた。熊楠の『ネイチャー』掲載論文は生涯で51本に上るが、これは同誌の歴代の投稿者の中でも単著としては最高記録であると言われている。また、ロンドン時代の後期からは民俗学の情報交換雑誌である『ノーツ・アンド・クエリーズ』にも寄稿を始め、「さまよえるユダヤ人」や「神跡考」といった、大英博物館での筆写によって研鑽を積んだ比較民俗学の成果を発表するようになっていった。

ネイチャー(当館蔵)

 このロンドン時代には、熊楠はさまざまな交友関係にも恵まれた。大英博物館のダグラスの下で、ある日紹介された中国人青年の孫文と意気投合したが、この孫文こそは後に辛亥革命によって清国を倒して臨時大統領となり、近代中国の基礎を作る人物である。日本文学研究者のディキンズとは、時に論争をしながらも長い交流関係を持ち、『方丈記』を共同訳したり、『古事記』などの翻訳の助言を与えたりした。ロンドン時代の初期に日本人真言僧の土宜法龍と出会ったことも、その後の熊楠の人生に大きな影響を与えた。交流は法龍がパリに移った後も文通により続き、仏教を中心とするさまざまな意見を交換する。

サイン帳(当館蔵)
孫文の直筆    
南方学長鑒    
海外逢知音    
Sun Yat Sen    
June 27th 1897   
London, England  
孫文贈言

 しかし、熊楠にとって、物価の高いロンドンで学問一筋の生活を続けることは容易ではなかった。実家からの仕送りに頼っていた熊楠であるが、当時、家業を継いだ常楠も米価の高騰、株価の大暴落という事態にしばしば遭遇して金策に苦慮していた。当然、熊楠への送金も滞りがちになる。骨董商と手を組んで、怪しげな浮世絵に面白おかしく賛をして売り歩くこともしなければならない熊楠であった。

 送金の滞ったことに対していらだっていた熊楠は、1897年にささいなことから館内で他の利用者を殴打するという事件を起こし、大英博物館での自由が束縛されることになった。その後、大英博物館を去った熊楠は、自然史博物館やビクトリア・アンド・アルバート博物館を拠点とした学問活動を続けるが、1900年9月、ついにロンドンでの生活をあきらめて帰国の途につくことになった。33歳の時のことであった。

 

孫文との記念写真(当館蔵)
1901年2月15日、和歌山市で撮影
前列左から、次弟常楠、孫文、常楠長男の常太郎、末弟楠次郎
後列左から、熊楠、通訳の温炳臣

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