滝尻王子

滝尻王子

滝尻王子本殿

滝尻王子(滝尻王子宮十郷神社)
 滝尻王子は、熊野三山の結界(霊域の入口)とされた要所で、熊野御幸の盛時には、神仏習合の儀式が行われた。滝尻王子社背後の剣山(371m)頂部周辺から経塚が発見されている。

【和歌山県の歴史散歩(山川出版社)】

由来
 院政期の熊野参詣日記(中右記・吉記・長秋記・後鳥羽院御幸記)に記される瀧尻王子社で、当社で祓・沐浴・経供養・歌会・里神楽などのほか神託の告げのあったことで名高い。

 明治元年 瀧尻五体王子社を瀧尻王子社と改称。
 同10年6月、村社となる。
 同40年4月、幣帛料供進社に指定。
 同41年11月、一村一社の神社合祀令によって、村内の神社(栗栖川の厳島神社・杵荒神社・石船の八柱神社・小皆の竃神社・水上の岩戸別神社・内井川の若宮神社・熊野川の若宮神社・真砂の八幡神社2社・北郡の日吉神社・西谷の大山祇神社)11社を合祀し、社名を十郷神社と改めた。
 昭和21年6月、社名を瀧尻王子宮十郷神社と改称した。
 同9月、合祀していた11社が分離し旧地に復社した。

 天仁2(1109)年、熊野に参詣した藤原宗忠が水垢離の為19回にわたり富田川の渡河を繰り返し、瀧尻王子に参拝した事が残されている。瀧尻王子の境内は多くの岩石で覆われ、熊野古道は修験道とし、瀧尻王子境内は修験の場であったのであろう。転在する岩石や洞窟にその跡が残されて居る。
 中でも奥州藤原氏三代藤原秀衡の夫人が此処て産気つき、人家無きをもってこの岩石の洞窟で男子出産し、熊野に参拝して帰途につき、洞窟に立ち寄れば子供は岩石から滴る乳を飲み生存していたという言い伝えがあり、この子供は藤原泉三郎(3男忠衡)で、秀衡これに報いて同地に七堂伽藍を造営し、武具等奉納したという。この洞窟は「体内くぐり」と呼ばれ観光の的になっている。なお、この納められた武具の中の黒塗り小太刀は、重要文化財として和歌山博物館で管理されている。
 現社殿は天保10(1839)年に建て替えられており、社務所については明治43年建築。

【和歌山県神社庁ホームページ】

神社合祀と滝尻王子
 滝尻王子は中辺路沿いの王子社としては珍しく、合祀する側でした。1908(明治41)年栗栖川村の神社11社を合祀し、社名を十郷神社と新ためました。「十郷」は、明治22年に合併して栗栖川村になる前の10村(栗栖川、石船、小皆、沢、水上、内井川、熊野川、真砂、北郡、西谷)に因んだものでしょうか。
 熊楠が神社の合祀合併とそれに伴う神社林の伐採を憂い、『牟婁新報』に長文の論攷「世界的学者として知られる南方熊楠君は、如何に公園売却事件をみたるか」を発表したのは1909(明治42)年9月27日のことですから、滝尻王子への合祀はその1年ほど前のことです。
 さて、合祀から6年後の1914(大正3)年、この十郷神社(滝尻王子)を栗栖川に移転するという話が持ち上がったようで、熊楠は牟婁新報に滝尻王子移転反対の投稿をしています(12月21、23、25日付 毛利柴庵の「馬渡内務部長に問ふ」を読む)。

 先年合祀の難を逃れたのみならず諸他劣等の諸社を此社に合祀して流石は海内に高名の聖趾史蹟歌道の名所を善くも保留したりと西牟婁郡衙と栗栖川村民一同の注意の厚かりしを稱賛され居る者を何の道理も無く此の名社を此の名社と聯關離る可らざる諸他の古蹟名所と引放ちて、今更大字栗栖川え移座奉ん事は頗る千歳の憾事とせずや。乃ち栗栖川近傍に在る諸名所古蹟は只今の瀧尻王子社の位置を起点として存立せるものなるに、此の社一たび大字栗栖川に移され了らば、今後追々探索復舊して全郡全村の名誉とも成べき古蹟史蹤が捜索の端緒を失了る事と成る。

 宜しく此の近國無類の聖蹟名所を今の地に天地と齊しく無渝に据え奉り其の地點も亦洪水の憂有りとならば宜しく少しく其の位置を移して小高き所に社殿を立つべきなり、古熊野九十九王子の社と云ひしも空しく其の名を聞くのみで、徳川氏の時既に亡失たる者少なからず。近時合祀の難に逢ふてより史乘に名高き王子社にして紀州に存立する者纔かに指を屈するに過ぎず。

 兎に角其村内に瀧尻如き名社有るは全國視線の萃まり注ぐ所なれば其辺は其相應に胸襟を寛くして今更斯る名社聖蹤を私意を以て移し替え奉る様の盲擧無きを望む。