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高山寺・猿神社

神社合祀反対運動の端緒となった猿神社
熊楠が眠る高山寺
そこからは神島も見える

高山寺

高山寺
  田辺の代表的古刹。真言宗御室派寺院で、「弘法さん」の名で親しまれています。聖徳太子開創といわれ、弘法大師が近くの淵(御影淵)に姿を映して彫ったという大師像にまつわる伝説も残っています。田辺市街、田辺湾を見下ろす境内の墓地には、南方熊楠・植芝盛平の墓があり、南麓には熊楠がよく採集に行き、新種の粘菌(変形菌)アオウツボホコリを発見した猿神社跡があります。
 寺の位置する丘陵(標高30m)の谷頭部には、縄文早期の高山寺式土器が出土することで有名な高山寺貝塚(昭和45年8月国指定)があり、長澤蘆雪の寒山拾得図、住持義澄の日記・木造聖徳太子孝養之像等の県指定文化財も伝わっています。

 

熊楠の墓
熊楠は彼が愛した田辺の町と神島を見下ろす高山寺のお墓に眠っています。
「南方熊楠墓」の字は、弟子の雑賀貞次郎が熊楠の自筆文字のなかから選んだもの。

 

高山寺境内図

※南方熊楠の墓は当方では管理しておりません。
お供え等はご遠慮いただきますようお願いいたします。お気持ちだけありがたくお受け取りさせていただきます。管理者にかわりお願いいたします。


神社合祀反対運動
 熊楠は、1909(明治42)年から、当時紀南で進行していた神社合祀政策に反対する活動を始めます。
 熊楠がそうした社会活動を始めた動機の一つに、彼がひんぱんに訪れて粘菌を採集していた神社が合祀・廃社となり、粘菌の発生環境が破壊されるという事件がありました。
 それは、糸田の日吉神社(山王権現、猿神社とも)で、場所は稲成の高山寺の南麓にありました。社域は41坪のつつましい神社でしたが、うっそうとした木立におおわれており、南方は徒歩圏内のこの神社林で多数の粘菌を採集していました。
 彼の採集標本のうち、リスター父娘によってはじめて新種として記載報告されたのが、アルキリア・グラウカ(アオウツボホコリ)です。熊楠は1906(明治39)年12月23日に、この標本を含む多数の標本をリスターへ宛てて送り、アーサーは1907(明治40)年3月19日付の返信でこの新種に命名したことを伝えてきました。
 ところが、そのアーサーの手紙が熊楠に届く直前の4月1日、この猿神社は近隣の稲荷神社(稲成町)へ合祀・廃社が決定されました。熊楠はこのことを10月22日付のリスター宛て書簡で述べ、「私たちに多数の粘菌標本を授けてくれたサルの神様がキツネの神様の所へ移されました。この景色はやがて損なわれるでしょう。二度とアルキリアを採集出来る望みはありません」と記しました。現実に、この旧社叢はのちに完全に伐採され、野原とされてしまいました。1909(明治42)年2月19日付グリエルマ宛て書簡に南方は、そのことを落胆とともに記しています。
 熊楠が、神社合祀に反対した「世界的学者として知られる南方熊楠君は、如何に公園売却事件をみたるか」を牟婁新報に発表したのは、その年の9月27日のことです。

糸田の猿神社跡の小祠

 

Arcyria glauca Lister (アオウツボホコリ)

 

 熊楠の採集標本のうち、全世界で未知だった新種としてリスター父娘が最初に報告したのが、アオウツボホコリでした。1907年3月19日付書簡の中でアーサーは、その青さびた(グラウカ)色が特徴的な標本について、「私たちの間での呼称として、新種Arcyria glaucaと名付ておこう」と記し、結局それが記載報告の際の命名となりました。アーサー没後の1909年10月1日、グリエルマは高山寺五重塔の絵ハガキをもらった礼状ハガキの中で、『粘菌モノグラフ』改訂版のためのこの新種の彩色図版の色校正が満足な出来だったことを伝えてきました。

1910年に刊行された『粘菌モノグラフ(A monograph of the mydetozoa)第2版でのArcyria Glauca(アオウツボホコリ)の説明(当館蔵)
This rare and beautiful species has been found twice only, in the summer of two successive years, by Mr. Kumagusu Minakata. It appeared on a rotting limb of a Chinese Camphor-tree growing by a shrine of the Shinto monkey-god at Itoda, in the province of Kii, Japan. The shrine has since been removed and the grove surrounding it cut down.

この希少で美しい種が熊楠により、たった2度だけ発見された。また、それが糸田の猿神社のタブの木の腐った大枝に現れたこと、猿神社が移転され社叢が伐採されたこと、が記されています。

 


南方二書での言及

 また当田辺町を去る三、四町ばかりの糸田の猿神社のタブの老木株ごとき、一丈に満たぬものなるに、従来日本になしと思える粘菌三十種ばかり見出だし、その一は新種なり。さればここのごとく、町に近き便利な地に三十種も年々粘菌を定まって生ずる地を点定しておくと、何の点定もなく探したらあるだろうとてぶらぶら捜しまわるとは、学者の経費上に非常の径庭あり。学問の進歩にも大関係あることなり。
 一所不定と称せらるる下等隠微植物すらかくのごとくなれば、高等顕花、羊歯群植物等、住処にはなはだ癖のあるものは、なるべくはその住処を知りおき、そこそこに保存されたきことに候わずや。(右の糸田の猿神社は全滅、樹木一本もなく、村の井戸濁り、飲むこと成らず。)これを例すれば、カラタチバナと申すものは、前年牧野氏が植物雑誌に出されたときは、土佐辺の栽培品に基づき記載されしと存じ候。小生知るところにては、本州には紀州の外にあまり聞こえず。(イ)は、前状申し上げし粘菌おびただしく生ずる糸田猿神社の小神林にて、ケヤキ、ムク、ミミズバイ、ハイノキ、タブ、ルリミノキ、ジュズネノキ、ヒョンノキ(当町より三丁ばかりの地になかなか見られぬ大木のみを挙ぐ)その他より成り、そのタブノキにマツバランの大窼株つけり。岡村周諦氏査定、従来本邦になしと思いいたる、アストムム・シュブラツムもあり。アーシリア・グラウカは、世界中この処にのみ連年見出だせる新種なり。しかるに四年前厳命してこれを図中(ニ)なる稲成村の稲荷社に合祠し、跡木一切、アリドオシノキごとき小灌木までも引き抜かしむ。明治は八年とかにも一度合祠したるに、今度は必ず神が帰り得ぬようにと、かくまで濫伐し、かつ石段を滅壊せしめ、石燈籠その他を放棄せしむ。故にこの地点のみ、回々教の婦女の前陰を見るごとく全く無毛となり、風景を害するはなはだしきのみならず、土壌崩壊して、ジンバナ井と申し、近傍切っての名高き清浄井水を濁し、夏日は他村の無頼漢、えた児などここに上がり、村中の娘の行水を眺め下ろし、村民迷惑一方ならず、よって交通を遮断し、今に畑にもなんにもならず弱りおる。(ニ)は、前述植物多き稲荷社の柯林なり。これも何とかせずば、今にまた事由を付し切らるること受合いなり。(ハ)は、弘法大師が臨んで影を留めたという弘法の淵なり。『後鳥羽院熊野御幸記』に見えたる、河に臨んで大淵ありとはここの外になり。この楠も三年ばかり前に伐らんといいしを、小生ら抗議して止む。さて、その伐らんといいしものは今春即死、また件の糸田の神森伐り、酒にして飲んでしまいし神主も、大いに悔いおりしが、数月前、へんな病にて死す。

熊楠が撮らせた糸田猿神社の写真(当館蔵)

現在の様子

写真裏書
四 稲成村大字糸田猿神(日吉神社)跡

 写真裏書には、これだけしか書かれていません。前述の『南方二書』を参照すると、(イ)の下の方が猿神社です。(ロ)の記述はありませんが、後方の山を指しているのならば龍神山(りゅうぜんさん)です。(ハ)は記述どおり鑑ヶ淵(弘法の淵)と楠(現存)ですが、当時、淵はすでに埋まっています。(ニ)の稲荷神社ですが、これもちょうど(ハ)の位置、楠の後方の山にあります。
 高山寺のある山の大きな木は松で、他の大きな木は切られたのでしょう。下の写真と見比べるとわかりますが、現在、この位置からでは龍神山は木々に隠れ、ほとんど見えません。


〇寄り道
高山寺貝塚
 高山寺貝塚遺跡は田辺湾に臨む標高30メートルの丘陵上、高山寺の寺城内にあります。会津川の右岸、現海岸線から約1.3キロの位置にあり、貝塚はこの丘陵の西南・西・東北の斜面三ケ所に点在し、第一号貝塚、第二号貝塚、第三号貝塚と発見順に名付けられています。
 この貝塚は1938(昭和13)年の秋、墓地の拡張と道路新設工事中に初めて発見されました。調査によって、海水産の貝殻からなる近畿唯一のもので、しかも縄文早期の高山寺式土器をだす標式遺跡として有名になりました。
 1939(昭和14)年3月、第一号貝塚から北へ約40メートルの地点、西南傾斜面で電柱が立てられたときに貝塚が掘り出されましたが、貝塚として確認されるには至りませんでした。ところが1966(昭和41)年4月、この電柱から近接した場所で下水管工事のため長さ約10メートル、探さ約3メートル、幅約80センチの溝を掘ったところ、約60センチの厚さで貝殻が堆積していることがわかり貝塚であることが確認されました。これが第二号貝塚です。
 1964(昭和39)年10月高山寺本堂改築に伴って東北の斜面に基礎工事を始めたところ貝層にあたり貝塚のあることが確認されたので、1965(昭和40)年12月に発掘調査が行なわれましたが深くて地山に達するにいたませんでした。
 1980(昭和55)年、高山寺境内の西側に駐車場が造られることになったのを契機にして、三か年計画でこの丘陵上が調査されることになりました。初年度は駐車場予定地を中心に行われ、中近世の陶器類、弥生土器等が採集されました。次いで昭和56年は第一号貝塚の斜面を登った平坦部が掘られましたが、近世の墓地跡でそれ以前のものはありませんでした。最後の調査は1980(昭和58)年2月、第三号貝塚の範囲確認調査をおこなったところ、貝塚中心に縄文土器と弥生土器とが混在するだけではなく、貝層下の地山直上にある押型文土器の包含層の上まで弥生土器が僅かでしたが認められました。
 このように高山寺貝塚とその周辺部との調査により、この丘陵には三か所の貝塚の他にほぼ全域にわたって弥生後期の土器と遺構が存在することが判明しました。
 代表的な遺物がいわゆる高山寺式土器と呼ばれる押型文土器で標式土器です。