上の山周辺

かつての西の谷村
熊楠ゆかりの神社が点在

八立稲神社

西八王子宮

八立稲神社・西八王子宮
 東八王子社が、1873(明治6)年上ノ山東神社と改め、1907(明治40)年に出立神社(出立王子)、八幡神社を合祀、稲荷神社を移し、八立稲神社と社号を改めました。さらに1909(明治42)年には上ノ山西神社(西八王子)を合祀しました。
 熊楠は西の王子社(西八王子宮)について、南方二書や白井光太郎宛書簡などで触れています。
 (前略)出立王子は定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るがごとく、この上皇関東討滅を熊野に親しく祈らんため、御譲位後二十四年一回ずつ参詣あり、毎度この社辺に宿したまい(御所谷と申す)、みずから塩垢離取らせて御祈りありしその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小ぎたなき湯巻、襁褓などを乾すこと絶えず。それより遠からず西の王子と言うは、脇屋義助が四国で義兵を挙げんと打ち立ちし所なり。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社と共に、劣等の八坂神社(八幡神社の誤り)に合祀して三社の頭字を集めて八立稲神社と称せしめたるも、西の王子の氏子承知せず、(後略)

【明治45年2月9日付 白井光太郎宛書簡 南方熊楠全集 平凡社】

 

 この西の王子の場面に登場するのが、「兵隊帰りの植芝なる豪傑」で、それは西の王子の近くに住んでいた若き日の植芝盛平と思われる。日露戦争に従軍したのち大阪の連隊にいた植芝は、長男なので除隊させてほしいという父親の頼みで、1906年に郷里に帰り柔道の道場を開いていた。当時、植芝はまだ二十代後半であった。
 当町近所西の谷村も社費の件に付き多数は不納説、少数(金持ち連)は利益上より(海藻を取る)今年のみ納むべしとの争いの所ろ、兵隊帰りの植芝なる豪傑の為に打負け不納に決し、小守重保氏に頼み復旧請願書認め中なり。(西面欽一郎にあてた1911年1月25日付の手紙)

 

 後年、合気道の開祖として知られるようになった植芝は、自分が若いころ神社合祀反対運動に参加し、熊楠のもとで奮闘したと語っていたことが多くの伝記に記されているものの、その詳細は明らかでない。1950年ごろ、茨城県岩間に住んでいた植芝をプロレタリア文学者の貴司山治が訪ねたことがある。その時、植芝は、熊楠と自分は「熊よ」「盛平よ」という刎頸の間柄で、二人とも「田辺の町のにくまれ者だった。しかし乱暴なのは五十人力の私よりも学者の熊の方だった」と語ったという(乾元社版全集月報3)。

 

1912年1月5日には、熊楠は西の王子の「復社祭り」に招待されている。出席しなかったら、翌日、祭礼のご馳走と鏡餅がとどけられたと日記にある。餅は翌年の祭礼日にもとどけられている。

【「南方熊楠 梟のごとく黙座しおる」(飯倉照平著)】

 

 刎頸の間柄と植芝はいいますが、現在のところ、熊楠が植芝について語っているのは後にも先にもこの部分のみです。これらは植芝が大成してから語ったことで、真実味に乏しいものです。

※和歌山県神社庁の神社一覧には西八王子宮は掲載されていません。

植芝盛平(1883~1969)
 上の山に生まれ、1901(明治34)年、上京して柔・剣術を学ぶ。1912(明治45)年北海道開拓の紀州団体の長として北見に入植するが、父の病気で帰郷。これを機に大本教の信仰に入り、京都・綾部に居を移す。やがて教主出口王仁三郎の側近となり、植芝塾道場を開いて武術の指導に当るが、後に気・心・体一如の合気道へと発展する。昭和の初めに上京して本格的な道場(皇武館)を開き、合気道の植芝盛平の名声を高める。


 

写真裏書
 十四 南方二書十九―二〇頁
西牟婁郡西ノ谷、西ノ王子合祀跡より田辺湾を隔てて瀬戸岬を望む、絶景の地なり。
右辺の密林ある岬は、目良の王子跡なり。これも滅却され、さんざんに濫伐さる。此辺より曲玉等出しも散佚す。
この合祀跡も今に合祀前きの社へ一人もまいらず。坊主に経よませ祭典し居る。委細は「二書」で見られ度候。


出立王子跡
 熊野九十九王子のひとつである出立王子は、現在、八立稲神社に合祀されています。田辺第三小学校の登りロに県史跡の出立王子跡があり、小さな祠が祀られていますが、古くは、西郷の御所谷付近にあったと推定されます。熊野道は、この出立から大辺路、中辺路の両道に分かれ、中辺路はこれまでの海岸沿いの道からけわしい山路にさしかかります。
 この王子社の前方にかつて塩垢離浜がありました。熊野詣は難行苦行の旅で、厳しい精進潔斎を必要としましたが、出立の地は熊野路で塩垢離をとれる最後の地でもありました。また、『御幸記』に「宿所甚だ広し」「美麗にして河に臨み深淵あり」と記され、『修明門院御幸記』には「御所は海岸の上なり」と記され、付近には御所や宿舎もあり、熊野道の一大拠点にある王子でした。


南方二書での言及
 紫葉は近くまで、この田辺辺の山野が名産なりしが、今は一本もなし。紫葉を見たものなし。ホタルカズラ、ヒメナミキ、いずれもこの田辺辺の出立松原に多くあり、開花の節はなはだ行客の眼を恰ばしめたり。しかるに四年ばかり前に、小学校建築という名目の下に、この出立松原をことごとく伐り(村民松を抱えて哭するを、もぎはなして伐りつくせしなり)しため絶滅す。その松は白蟻にかまれ、小学用にならず、今に幾分を腐らせ放捨し置く。さて魚類田辺湾へ来ること少なくなり、夏日は蔭なく、病客多くなり大閉口、その学校もかかるつまらぬ木で立てしゆえ頽れ落ちる。この出立松原は『万葉集』にも顕われ、元禄のころ浅野左衛門佐という人数万本を植え副えしなり。ここに載するところの紫葉、ホタルカズラ等は、他にも産所あれば、わざわざ惜しむべきものにあらず。しかし素人の考えとちがい、植物の全滅ということは、ちょっとした範囲の変更よりして、たちまち一斉に起こり、そのときいかにあわてるも、容易に恢復し得ぬを小生まのあたりに見て証拠に申すなり。


〇寄り道

龍泉寺
 「紀州田辺にすぎたるものは江川三ヶ寺、会津橋」
 これは江戸時代、会津橋と並んで龍泉寺、浄恩寺、西方寺の江川にある三ヶ寺が、いかに立派だったかを表した言葉です。
 境内には清姫が喉を潤したといわれる「清姫の井戸」があり、鐘楼の天井には、川島草堂の手により「龍」の画が描かれています。


川島草堂

川島 友吉(かわしま・ともきち)

 1880(明治13)年、田辺市紺屋町に生まれる。日本画家で草堂と号す。幼時より画才があり、ほとんど独習して地方で一家をなすに至る。虎を描くを得意とし、代表作に海蔵寺の大達磨の絵、高山寺の「百花百鳥図」等がある。 
 鳥撃ちの達人で奇人としても知られ、南方と親しく高野山へ随行したりした。1940(昭和15)年60歳で死去。

 

右から熊楠、目良純、川島草堂

 


宗祇庵跡
 宗祇(1421~1502)は室町時代の連歌師で、北は奥州、南は九州まで行脚して平安時代の西行、江戸時代の芭蕉とならぶ漂泊詩人として有名です。
 上野山は秀吉の紀州征伐で滅んだ湯川氏の砦があった所で、日高の亀山城主湯川政春は連歌を好み、小松原の歌仙堂に宗祇をしばしば招いて連歌の会を催したといわれ、湯川氏ゆかりの上野山麓にも宗祇が仮の庵をむすび、「世を旅に宿を刈田の辺りかな」の句を詠んだと伝えられ、「宗祇翁旧跡」の稗があります。この碑は、1776(安永5)年、玉置香風(近世田辺の俳人)が庵を修復し、建立したもので、香風は1801(享和元)年、宗祇三百年忌(忌日は7月30日)を営んでいます。
 なお、1904(明治37)年、柴田素雄らが四百年忌を営み、1906(明治39)年庵を再興しました。