継桜王子社と一方杉
熊楠が近露王子と継桜王子を訪れたのはまだ神社合祀の動きのない1904年のことです。
熊楠は那智山を主とした熊野の生物調査を終え、田辺への道は、大雲取、小雲取、中辺路と5日をかけて歩き通しました。10月8日には近露の北野屋に泊まりました。近露王子や継桜王子が金比羅社に合祀されるのはそれから4年後の1908年11月のことですから、熊楠は、荒廃したとはいえ、まだ古態をとどめている王子社の建物とそれを荘厳している巨大な杉郡を目にすることができたはずです。
二度目にここを訪れたのは、大和の玉置山への登山を目指した1908年のことで、8日の夜、野中の松屋に宿をとり、帰りも松屋に宿をとっています。後年、土地の青年野長瀬弘男(晩花)に、一方杉とその上部の雑木林を画いて、上部の雑木を苅れば下部の杉郡は数年を経ずして色を変え、故損がはじまる、と警告しましたが、そうした観察はこの三度の訪問の成果なのです。
熊楠が神社合祀と神社林の伐採に反対して第一声をあげたのは1909年9月のことです。その直後に、紀伊教育会主催の夏期講習会場である田辺中学校講堂に「乱入」したかどで、獄中生活を味わいました。「世界的大学者の投獄」ということで世間の耳目を集め、その発端となった神社合祀問題は国内外に大きな反響を呼び起こした。熊楠のもとへは、合祀された神社の復社を願う人びとが各地から相談の手紙を寄せました。近露在住の野長瀬忠男・弘男(画号晩花)兄弟もそうで、兄弟は近露、野中の両王子社跡の杉の寸法をいちいち測って、その保存方法を相談したようです。1911年5月26日のことで、以後、同年12月5日の一方杉伐採着手まで、熊楠は保存の成功を信じて関係者への働きかけに没頭するのでした。
一方杉の保存について、熊楠には勝算がありました。それは柳田国男を通じて、植物学者松村任三に宛てて書いた二通の書簡が柳田によって『南方二書』として関係者に配布されたからで、世間にこの継桜王子社の由緒や巨杉に囲まれたたたずまいが知られ、保存の声が和歌山県知事にまで届き、須藤丑彦(県視学)が知事の特命を帯びて現地調査に入ったのです。須藤は熊楠の小学校からの友人で、その感触では、村長は県の指導があれば保存に努力するだろうということでした。熊楠は神島と同じ結果になるという期待で須藤の話を聞きました。
しかし、話は思わぬところから崩れました。合祀の規模が十三社と多く、湯川王子社などすでに十社の神木を売り払い、その代金のうち1,000円を使って新神社も建築していました。いま一方杉を例外にすれば、伐採した神社すべてに代金を還付しなければならないという村会議員の強硬意見に村長が屈服したからです。わずか9本のみの保存に落着した結果に熊楠は落胆し、これまで応援してくれた人びとへの申し訳から頭を丸め、土宜法龍にあやかって法の一字をとり、自らはミミズに擬して法蚓と称し、5歳になる子息熊弥もカニになぞらえ法蠏として、当分いっさいの世事を断って謹慎の意を表したのです。
【熊楠ワークス8号(南方熊楠ゆかりの地を訪ねる7 継桜王子社と一方杉 中瀬喜陽)参照】
継桜王子
野中の一方杉