ホーム » 南方熊楠ゆかりの地 » ゆかりの地 » 田中神社・八上神社

田中神社・八上神社

田中神社

田中神社・八上神社

 この田辺より三里ばかりの岡と申す大字の八上王子の深林中に宇井氏見出だす。それより栗山昇平氏、一昨年栗栖川の神社合祀跡で見出だす(むろん只今は絶滅)。寛政七、八年ごろカラタチバナ大いに賞翫され、一本の価千金に及べるあり。従来蘭や牡丹の名花は百金に及ぶものあれど百金を出でし例を聞かず、と『北窓瑣談』に、見えたり。hortorumの名をつけしも、この栽培品によれるならん。何に致せ、当県では少なきものなり。
 しかして右の八上王子は『山家集』に、西行、熊野へ参りけるに、八上の王子の花面白かりければ社に書きつけける

 待ち来つる 八上の桜 咲きにけり 荒くおろすな 三栖の山風

とて、名高き社なり。シイノキ密生して昼もなお闇く、小生、平田大臣に見せんとて写真とりに行きしに光線入らず、止むを得ず社殿の後よりその一部を写せしほどのことなり。この辺に柳田国男氏が本邦風景の特風といえる田中神社あり。勝景絶佳なり。

 また岩田王子、すなわち重盛が父の不道をかなしみ死を祈りし名社あり。

田中神社

 上富田町岡にある田中神社は、その名の通り田に囲まれている神社です。
 この神社は、その昔、岡川八幡社の上手の倉山から、大水のときに森全体が流れ着いたのだといい伝えられています。
 森全体でなく、社殿か神符が流れ着いたのだろうという人もいます。夜中に森が流れるときに、森の中に提灯が幾張も灯っていて、岡川の人たちは泣きながらその灯を見送ったのだと伝えられています。天保年間にできた紀伊続風土記には、一村の産土神として記録されています。
 また、境内の手洗鉢には、今は楠の根に囲まれてみえなくなっていますが、延宝の年号が刻まれているといいます。

 田中神社は、1915(大正4)年に八上神社に合祀されてしまいますが、熊楠の「合祀されても神林だけは残しておけ」との助言に従い、神社林を伐採せずに残しておいたため、後に複社することができました。(和歌山県神社庁の神社一覧には田中神社は掲載されていない)

 今回田中神社を八上神社に合祀したについて、その跡森を伐採して八上の神田とすると聞き及ぶ。この田中神社と八上神社と岡川八幡神社の写真は、かつて「日本及日本人」にも載せ、また前代議士中村啓次郎君より時の内務大臣平田男に示して讃称を得たこともあり、かかる古社はなるべく保留を望むとの言なりし。田中神社の風景美観と紫藤の優雅なること、ならびに現時植物学上の大問題たる松葉蘭発生研究に最好の場所たること、またことに予が先年来潜思考鑿中なる、わが邦の古社にはオリエンテーション(方位)を正しく立てたる事証ある論も、この田中神社を手掛りとして着手し得たところで、昨年四月東京発行「郷土研究」102~4頁にその緒言を出してより、大いに識者の注意を惹きおる。

田中神社本殿

 

【「岩田村大字岡の田中神社について」大正5年1月15日「牟婁新報」より】

大賀ハス

 1951(昭和26)年に千葉市検見川の地下6mにあった2000年前の縄文遺跡から、東京大学農学部教授であった大賀一郎博士がハスの種を発見し、発芽生育開花に成功させたものです。
 田中神社の周りの田の1つが蓮池となっています。

大賀ハス

 


オカフジの命名

 この田中神社には珍しいオカフジが繁茂している。県指定の天然記念物であるが、この命名の由来が当地の植物研究家樫山嘉一宛の熊楠の書簡に述べられている。

 昭和6年10月18日午前6時40分
  樫山嘉一様          南方熊楠

 拝啓 過日御将来の紫藤は、小生自ら色々取調べたるところ、間違いもなくキフジ、オカフジと本草図譜巻二十九に出おるものに候。ちょうど大字岡に産するゆえ、オカフジという名がよろしきように思うも、牧野博士(牧野富太郎)は、これにヤマフジと名を付けあり。小生はすでに古くよりキフジ、またオカフジなる名称があるに、昨今ヤマフジと命名するはいかがと存じ候。(こればかりが、どこの山にも生ずるにあらず。よそは知らず、紀州には山に生ずるフジは多くは例の穂が長きものなればなり)。このこと一度牧野博士へ問合わすべきも、とにかく小生はオカフジという古い名がよいと存じ候。

 学名 Kraunhia brachybotrys 尋常の穂の長いのは Krunhia floribundaに候。

(中略)右のオカフジは今のように品が少なくては、しゃべりちらすとすぐ取り
尽されるから、当分黙しおり、貴地方へその種子を播殖させられたく候。

オカフジ

 上記の手紙から推測出来るのは、昭和六年の夏、田中神社の森に咲いたフジが、平生よく見かけるものより花が短いことに気づいた樫山氏が、何というフジなのかと実物を折りとって熊楠宅へ持ち込んだ。熊楠が調べたところ『本草図譜』 - 岩崎常正(灌園)著・文政年中手稿本 - に、キフジ、オカフジとしているのと同じものである。ところが牧野氏の図鑑ではこれにヤマフジと新しい名をつけている。古い書物にすでに名前があるのに新しく名前をつけるのはどうかと思う。とにかく、私は古い名のオカフジを推したい。ちょうど自生地も「岡」であるからオカフジが似つかわしい。ということで、南方先生命名の「オカフジ」が誕生したのである。

 このほか岩田出身の宇井縫蔵にも同じ時期に次のような手紙を出している。

  昭和6年10月29日

  宇井縫蔵様       南方熊楠

 貴下の紀州植物編に、フジの一種に本草図譜にキフジまたオカフジと名づけて図せるもの出でおらず。樫山氏前年岩田村岡の田中神社跡地に数本あるを見出し持来り候につき、注意して花から幼葉、芽から熟せる子実までたびたび持来りもらい調べしに、牧野、田中二氏によれば『日本植物志』ヤマフジとせるものに当り候。花の穂が常の藤よりはなはだ短く、花大きく当地方にてフジマメの一種、板と名づくるものに似おり、美なるものなり。小生は日高郡の藤滝その他紀南諸山中にてフジを多く見たるも、この種はこれが初見にござ候。貴下はかつて見られたることありや。しかしてこの物すでに古くキフジ、またオカフジと名づけられ、発表されあるに、牧野氏は別にヤマフジの名をつけあり。山フジとは人を謬まりやすき詞にて、山中にあるフジは過半この穂短かく花大なるものなりという誤想を生ぜしむことと存じ候。(後略)

上富田町文化財教室シリーズより


八上神社の貴重な植物

 小生知るところ、八上の神林の植物を古く気づきしは栗山昇平氏にて、当時その草木の名を知んにも手がかりなく、幾年かたつうち田中芳男男当地へ来り中屋敷町の五明楼に宿りしことあり。(明治二十六、七年より前のこと)。昇平氏推参してことごとく標品を示し一々名を書きつけたるなり。一昨年頃広島県で死なれ、今はその人の名さえ記憶する人なきも、その功は没すべきに非ず。またそれより前に県庁の学務課長たりし美山巌氏あり。一昨年大阪で死せし栗山寛一氏の実兄なり。また県庁の勧業課長たりし南部町生れ牛尾興業氏あり。これらの人々も岩田や岡の植物を少数乍ら調べて書き上げられしなり。鳥山啓先生に至っては、田辺生れだけに幼少より三栖、岩田から栗栖川、近野辺を毎度跋渉し、写生図も多く、標本も多く、ことに田中男と永年親交ありしゆえ、いろいろと知り明らめられたり。その前には小原(桃洞)、畔田(翠山)諸先生自らこの辺に来り、書き残されたものいろいろあり。小生も写して持ちおり。これらの先生が紀州に出て、紀州の物を書上げられしは、紀州人の幸いなり。(樫山嘉一宛、昭和9年3月26日付)

 ヤツシロランの絶滅は小生常に憂うるところにこれあり。おいおい交通が便利となるに随い、ますますこの憂いが大きくなりもうすべく候。これを防ぐの法は、貴下や樫山氏などがあまりこんなものがこの村の何大字何字の何の地にあるといいちらさぬことにござ候。かようのものを見出したら、岩田村で見出したら、岩田村で見出せりというだけにてよろしく、その上のことはかならずいわぬことに候。それをヤツシロランは岡の八上王子にありとか、また、何れのところにありとかいうは、盗人を募集するようなものにて、そんなことでは決して保存は出来るものにこれなく候。(平田寿男宛、昭和5年5月7日)

平田が作製したヤツシロランの標本