神島

※神島は許可なく上陸できません。

神島(国指定天然記念物)

 神島は、「おやま」「こやま」の二島からなり、全島が照葉樹林で覆われている。

 古くから神島神社の社叢として大切に保全されてきた。1911(明治44)年に伐採樹が売却されようとしたとき、南方熊楠が神島の重要性を強調し、保全活動を展開した。この運動は新庄村民の協力を得て、1930(昭和5)年に県指定の天然記念物に、さらに1935(昭 和10)年に国の天然記念物に指定された。

 この島の森林は、周縁部に「クロマツ・ウバメガシ林」を配し、主要部は「タブ・ムサシアブミ群集」に属する照葉樹林で構成されていた。昭和初期まではタブノキの巨樹が林冠を覆い、バクチノキ・ヤブツバキなどが樹下を埋め、ウラシマソウ・キシュウスゲなどが林床に密生し、ハカマカズラなどのツル性植物が絡みついていて、亜熱帯性の大森林を発達させていた。そのため粘菌類など温暖多湿を好む森林性の生物も豊富に生育してい た。

 しかし、昭和の中期に入ってから、明治末期に行われた‘こやま’の一部分の森林伐採による影響が現れ、タブノキ・クロマツなどの多くの巨木が相次いで枯死したが、それらに入れ替わってホルトノキ・エノキ・ムクノキ・クスノキ・バクチノキ・ハカマカズラなど多くの樹種が大きく成長し、深い森林の形態を伝えている。

 この島を特徴づける植物として、亜熱帯性植物のハカマカズラ(マメ科)・キシュウスゲ(カヤツリグサ科)・タキキビ(イネ科)・バクチノキ(バラ科)等の大群落や、ウラジロガシ(ブナ科)・エゾエノキ(ニレ科)など普通の海岸林内では見ることのできない内陸山地性の樹種の生育などがあげられる。

 動物では、神島を模式産地とするコスジギセル(陸産貝類キセルガイ科)・カシマセスジアカムカデ(ムカデ類メクラムカデ科)・カシマイボテカニムシ(クモ形類カニムシ 科)などをはじめ、熱帯系のノミガイ・ヒロクチコギセル(以上陸産貝類)・ツマアカベッコウ・マメクワガタ・クチキコウロギ・ウスヒラタゴキブリ・ルイスナガカメムシ・イソカネタタキ(以上昆虫類)のような重要種が多数報告されている。

 1926(昭和4)年、昭和天皇が行幸されたとき、南方熊楠が植物や粘菌類について御進講したのは有名である。後日これを記念して「一枝もこゝろして吹け沖つ風 わか天皇の めてましゝ森そ」と詠んだ熊楠の歌碑が建てられている。       

【『田辺市の指定文化財』より】

鳥の巣から神島を望む

磯間浦安神社から神島を望む

合祀先の大潟神社

おやまに残る小祠

熊楠が上陸していた浜

神島のワンジュ(ハカマカズラ)


熊楠と神島

 熊楠が初めて神島に渡ったのは、1902(明治35)年6月1日のことです。この初めての上陸は二日酔いでどうしようもなかったようですが、同年8月9日に渡った際には全身を蚊に刺されながらも「ワンジュ、ハマボウ、ツチガキ1種、禾本科1種等とる」というように、多くの植物を採集しています。おそらくこの時に熊楠は、神島が紀伊半島南部の典型的な植生をよく留めていることに気がついたようです。

 その後、神島は熊楠たちの運動によって明治末年には「保安林」に指定されます。そして1929(昭和4)年、神島は熊楠が天皇陛下にご進講をする場所として選ばれ、さらに翌1930(昭和5)年、和歌山県の天然記念物に指定、1935(昭和10)年には国の天然記念物に指定されています。この3段階の神島の保全の全てにおいて、常に熊楠は主導的な立場で関わっています。神島という稀有な島が法の下できちんと保全されるために、熊楠はその時代における最善の努力を傾けたのでした。                           

【第10回特別企画展「神島」より】


神島の調査報告

 本島は新庄鳥ノ巣の西方約3丁の海上に在りて、田辺湾内諸島中のすこぶる大なるもの、その周囲約9町という。この島主として岩石より成り、おのずから東西大小2島に分かれ、東島に多少の土壌と沙浜あるも、西島はほとんどこれを欠き、巌磯その間に拡がりて2島を聯ぬるも、月の晦ごとに潮水巌磯を浴してこれを中断す。遠近の眺望絶佳なれば、『建保三年内裏名所百首』恋の20首の内、順徳天皇、僧正行意、家隆朝臣、忠定朝臣の詠歌、いずれも紀伊国磯間浦(現時田辺町の内)に合わせてこの神島を読みたり。  古来紀州の沿海80里と称せられし、その多くの島嶼中、樹木密生して波打ち際に接せること、よくこの島に及ぶものあらず。東島の島頂に古来健御雷之男命と武夷鳥命を祀り、海上鎮護の霊祗として、本村は勿論近隣町村民の尊崇はなはだ厚く、除夜にその神竜身を現じて海を渡るよう信じたり。

神島の彎珠

 1909(明治42)年本村村社を合祀してすでに25年を経る今日といえども、素朴の漁民賽拝を絶たず、供品腐るに及ぶも掠め去らず。この輩島内の一木一石だに犯さず、もっぱら畏敬して近日に及べり。上述のごとくこの島名勝をもって古く聞こえたるが上に、また特にその絶好の彎珠を産するをもって著わる。これは豆科の大攀登植物にて、『紀伊続風土記』94に、「彎珠一名ハカマカズラ、大蔓にしてその茎の周2尺に及ぶ。長さ数丈にして喬木上に蔓う。葉矢筈のごとくして互生す。花はいまだ見ず。莢の形扁豆に似て闊く、中に二黒子あり、至りて堅し。形羅望子(ワニグチモダマ)に似て小さし。根は黒色大塊なり。俗にこの実を帯びて悪気を辟くという」とあり。琉球と九州南部、四国南端にもあれど、本州にあって紀伊のみに産し、古来この神島と西牟婁郡江住村2、3所と和深村の江田の双島とがその産地として著わる。就中神島の物形最も円く肌細かに光強く外面凹凸なきをもって、念珠を作るに最も貴ばる。古伝に、神島に毒虫あるも人を害せず、これ島神の誓願による。  故に夏期に熊野に詣ずる者、多く島神に祈り彎珠1粒を申し受け、これを佩びて悪気と毒虫を避けしという。宇井縫蔵の『紀州植物誌』にいわく、神島産の彎珠は、幹の最も太きもの周囲1尺ばかり、蜿蜒として長蛇のごとく、鬱蒼たる樹間を縫うて繁茂せり、と。これよく形容せるの辞、単独林下に在りてはいと気味悪く覚ゆるほどなり。したがって古く島神を竜蛇身を具え悪気毒虫を制すと信ぜしなるべし。

神島の生物

 神島の神は近年まで諸人に畏敬されたるをもって、神林が人為の改変を受けしことほとんど絶無なれば、林中の生物思うままに発育を遂げ得、また近地に全滅してここにのみ残存する物多く、往々今までこの島にのみ見出だされて全く他所に見えざるものあり。現時確かに知れたる神島産顕花植物および羊歯類総て185種、その内リュウキュウカラスウリはかつて琉球特産と聞こえしが、近年宇井縫蔵これを神島に見出だす。ハマヤイトバナ、オオマンリョウ、バクチノキ、タキ キビ、キシュウスゲ、クスドイゲ、ハマボウ、イヌガシ、タチバナ、ヤマゴボウ等は田辺湾付近にこの島以外に全く見ず、あるいは絶滅に瀕しあり。この島のチョウジカズラは、その葉の長さ時に他地の物の2倍に及ぶあり。南方が立てたる新菌属シクロドンは、この島と日高郡川上村のみに産し、新菌種ストロファリア・スグサルサは海水近く生ずる稀有の物にて、この島のみに生ず。

【「神島の調査報告」より『南方熊楠全集 第10巻(平凡社)』所収】

1934(昭和9)年 神島調査中の熊楠

ご進講・ご進献

 南方熊楠が昭和天皇(当時摂政宮)へ初めて粘菌標本を進献したのは1926(大正15)年11月10日のことで、小畔四郎ら門弟の収集品を主に、熊楠が37属90点を選び、表啓文を添えて進献した。粘菌にご関心の深い摂政宮のご内意があってのことで、その後、1928(昭和3)年にも標本献上の希望が宮内省生物学研究所主任服部広太郎から小畔に出されたが、これは実現しなかった。

 昭和天皇の南紀行幸が話題になったのは1929(昭和4)年3月5日、服部広太郎が侍従とお忍びで熊楠邸を訪れ、神島に渡ったことに始まる。服部は、もし天皇の南紀行幸があれば熊楠に粘菌の説明役を引き受けてもらえるかの意向を打診したかったようだ。それに対して熊楠は、1月に日高の妹尾官林で痛めた両肘の創跡を見せて話はすれちがいに終わった。4月25日、再び服部から小畔を介して、南紀行幸の内定と進講の可否の問い合わせがあり、熊楠は応じる旨、返電した。加藤寛治(軍令部長・海軍大将 ロンドン留学時に交流)からの通信では「御前で(南紀行幸のことを)一寸言上に及び候処、小生よりはより以上に貴名御承知のこと拝承」とも「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」とあり、熊楠は感激した。

 白浜の南方熊楠記念館に当時の資料が展示されているが、その一つに進講決定の知事からの通達がある。

 

 昭和4年5月25日  和歌山県知事 野手耐  

 来る6月1日、海産動植物ご採集の上御帰艦迄に、貴下御秘蔵の珍種植物標本数種御携帯の上、別仕立の船を以て云々……。

 

 服部の電報から1ヵ月後、ご進講1週間前の通知となる。なぜこうなったのか。これはこの時の行幸の目的と大きくかかわる。県はごく普通の奉迎態勢をとり、進講者に南方熊楠を選ぶことは念頭になかった。ところが宮内省では、昭和天皇が粘菌にすぐれてご関心が深く、田辺在住の研究家南方熊楠の名は早くからご承知である。ぜひ日程の中に神島での粘菌採集と熊楠によるご進講を入れたい、とあらかじめ3月から準備を進めていた、そういう食い違いからであろう。

 6月1日。熊楠はこの日、フロックコートを着て神島に向かい、その後、お召艦で秘蔵の収集品をご覧に入れた。昭和天皇は、タバコの空き箱や古新聞にくるまれたそれらの標本を楽しまれ、進講時間を延長させて熊楠をねぎらわれたという。なお、その時、動植物の標本を大きなキャラメルのボール箱につめて持参したことは、いまでも語り草になっている。

 1932(昭和7)年にも熊楠は、門弟と合わせて30点の粘菌標本を献上、小畔四郎が単独で献上した分と合わせて4度の進献を果たした。

 戦後、昭和天皇は渋沢敬三に向かって次のように語ったという。

 「南方には面白いことがあったよ。長門に来た折、珍しい田辺附近産の動植物の標本を献上されたがね、普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れてきてね。それでいいじゃないか。」

 1962(昭和37)年、南紀に再度行幸された天皇は、翌1963(昭和38)年正月、歌を発表した。

 雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ          

【『世界を駆けた博物学者 南方熊楠』(南方熊楠顕彰会発行)参照】

神島歌碑建立紀念・写真

神島歌碑

森永ミルクキャラメルの箱

神島から田辺市街を望む

 


神島・大潟神社