ホーム » 第30回南方熊楠賞【人文の部】選考報告

第30回南方熊楠賞【人文の部】選考報告

南方熊楠賞選考委員会(人文の部)
委員長 赤坂 憲雄
第30回南方熊楠賞(人文の部)は、慎重に審議した結果、南方熊楠賞の受賞者に北原糸子氏を選考した。


このたび、豊かな歴史を刻んできた南方熊楠賞は第30回を迎えた。南方熊楠賞選考委員会では議論を重ねた末に、災害社会史という知の新たな領域の開拓者である北原糸子氏を、その受賞者に選んだ。北原氏は、1939年に山梨県に生まれ、津田塾大学学芸学部英文科を卒業後、東京教育大学文学部史学科に転じて、同大学大学院研究科日本史学専攻修士課程を修了している。博士論文「都市と貧困の社会史 江戸から東京へ」によって、成城大学より博士号(文学)を取得したのは、1999年のことである。東洋大学、日本女子大学、神奈川大学などの非常勤講師、さらには神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科特任教授、立命館大学歴史都市防災研究センター特別招聘教授、国立歴史民俗博物館客員教授を経て、2014年には退官している。

北原氏はフランスのアナール学派が唱導する社会史の影響のもとに、災害をめぐる社会史の研究へと歩を進めていったが、それは『安政大地震と民衆』(1983年)として結実している。この著作は多くの人に読み継がれ、のちに『地震の社会史 安政大地震と民衆』(2000年)と改題して、新版が刊行されている。北原氏による災害社会史という未踏の領域への道行きは、ここに始まっている。その当時はいまだ、地震に対する世の中の関心は低く、地震や災害に関する理学・工学的な研究はあったが、社会学や災害時における人間行動の研究などはごく一部の人たちが行なっているにすぎなかった、という。たとえば、災害に遭遇した人々がそれをどのように捉え、立ち直り、生き抜いたかといったことには、関心を寄せる人が少なかったのである。

北原氏によれば、安政大地震のときに爆発的に広まることになった「鯰絵」は、災害を生き抜かねば明日がないと考えた人々が、みずから編み出した励ましのメッセージである、という。『地震の社会史 安政大地震と民衆』は、そうした鯰絵やかわら版といった江戸時代の情報メディアの社会史的な分析を通じて、のちに注目されることになる「災害ユートピア」現象を浮き彫りにした先駆的な研究としても評価されている。北原氏の関心はつねに、災害そのものを抑圧された人々による世直しへの契機として、また新たな関係を結び合う僥倖(ぎょうこう)の場として捉え返すような可能性へと、やわらかく開かれている。北原氏は災害研究者として、いま・ここで何をなすべきか、という問いかけをみずからに厳しく課してきた人なのである。その真摯な学びの姿には、深い敬愛の念を覚えざるを得ない。

災害研究の分野ではいま、ようやく「文理融合」が進みつつあるが、その起点のひとつになったのは、北原氏が共同編集者をつとめた『日本歴史災害事典』(2012年)ではなかったか。あるいは、やはり編者となった『日本災害史』(2006年)においても、災害史を歴史学だけの専有物とすることなく、理工学分野の研究者との協同において切り拓いてゆこうとする姿勢が鮮やかであった。この意味合いにおいても、北原氏は災害研究の稀有なる開拓者として、きちんとした評価がなされるべきだろう。それはおそらく、北原氏が専任職に就くことなく、在野の学者として生きてこられたことと無縁ではない。

北原氏は東日本大震災のあとには、何度も被災地に足を運ばれ、調査を行なわれている。「いま起きている現実こそ、つまり、東日本大震災こそが災害社会史研究にとって導きの師である」という言葉が、『津波災害と近代日本』(2014年)の「序章」には見える。在野の研究者であり、フィールドの人であった南方熊楠の姿を思い起こさずにはいられない。