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扇ヶ浜公園周辺

かつては和歌山県指定の名勝
養浜により白砂青松がよみがえる
市民の憩いの場

田辺扇ケ浜海水浴場

扇ヶ浜
 会津川の河口から南東に三壺崎まで約1.5㎞の砂浜を扇ヶ浜と呼びます。海岸には防風林として広い松林があり、白砂青松の浜で、和歌山県の名勝に指定されていました。戦時中、松の大樹は軍需材として伐られ、その後松食い虫の被害にもあいました。浜は潮流の変化により浸食され、防波堤も築かれ、景色は一変しましたが、養浜により、かつての白砂青松の風景がよみがえりました。
 早朝や夕方には散歩・ジョギングを楽しむ人々が多く見られます。ここから見る天神崎に沈む夕日は絶景で、南方熊楠翁顕彰碑、鳥山啓翁顕彰碑、植芝盛平翁銅像の他、詩碑・句碑も数々あります。


南方熊楠翁顕彰碑

 南方熊楠先生は田辺に住むこと三十七年

 特に湾内の神嶋は天皇陛下を御案内し、一枝も心して吹けと愛護したところである

 今その嶋を一望するここに碑を建て永く 先生を顕彰する

                        昭和54年4月1日
                        白浜ライオンズクラブ二十周年記念

南方熊楠翁顕彰碑

 扇ヶ浜公園の南端に近いところに建っています。


鳥山啓翁顕彰碑
 鳥山啓翁は1837(天保8)年3月田辺大庄屋田所家に生まれ藩士鳥山家を継いだ。天性の才能と抜群の記憶力を以て努力勉強、和歌国学英語地理化植物絵画等あらゆる方面に長じ、田辺藩学校、和歌山師範、和歌山中学等に職を奉じた後、東京華族女学校に勤めること20年、その間多くの著作があり、有名な軍艦マーチの歌詞や、旧田辺高等女学校の校歌をも作った。大正3年歿。齢77。私たちは南方熊楠翁さえ、先生、と呼んで尊敬したこの優れた学者が当地出身であることを誇りとし、その功績を顕彰すべく田辺市政35周年に当り、ここに碑を建てた。
                          昭和52年11月20日
                          鳥山啓翁顕彰記念碑建設委員会

鳥山啓翁顕彰碑

鳥山啓
 鳥山啓は、江戸時代後期の1837(天保8)年、田辺の大庄屋田所顕周の次男として生まれました。啓が鳥山姓になるのは、19歳の時に田辺安藤家の家臣鳥山純昭と養子縁組し、その娘清と結婚したときです。明治以降に使った「啓」の名は、その才能を見込んだ田辺藩主安藤直裕から「衆に先んじて蒙を啓け」という意味で与えられたと伝えられます。七歳頃から、真砂丈平について漢学、石田三郎(酔古)の許では本草学を学び、14歳の頃には和歌山へ出て本居内遠に師事、16歳からは熊代繁里に師事して国学を学びました。

 国学とは、漢学と対になる言葉ですが、八代集をはじめとする和歌や、『源氏物語』『枕草子』以下の物語・随筆、さらには『古事記』と『日本書紀』以下の歴史書を読んで、日本という国の文化を総合的に学ぶことをいいました。「学問」ということばが、論語にはじまる「四書五経」以下の漢文を読んで、中国の文化を学ぶことをながらく意味していたことに対して、「日本を学ぶ」という意味で国学という学問が体系だっていたのは近世(江戸時代)にはいってからのことであり、松坂(当時は紀州藩)の本居宣長はそれを確立した人です。啓が師事した内遠は、その宣長の本居家を継いだ人でした(本居家は代々弟子が養子入りして家系を継いでいます)。啓は、漢学と国学という、文化系学問のふたつの大きな系統を幼少時から学んだのです。

 また、本草学とは植物をはじめとする自然界の諸物(動物・鉱物も含む)についての知識を、特に薬毒としての効能の面から集積するものでしたが、紀州藩では小野蘭山(1729-1810)や、その孫弟子にあたる畔田 翠山(1792-1859)が活動した学統がありました。啓が幼少時に、本草学という理科系の学問と漢学・国学という文化系の学問の双方を学ぶことが出来た背景には、紀州藩という幕藩体制下の大藩での学問的伝統の蓄積がありました。

 そうして、近世日本の高い教養水準を学ぶことの出来た啓の青年時代は、幕末の動乱期にあたっています。彼が16歳で熊代繁里に出会った1853(嘉永6)年は、その幕開けとなるペリー提督の浦賀来航の年でした。啓は、当時邦訳が増えつつあった西洋の科学・技術書によって、西洋近代科学の学習と、英語そのものの学習を独自にしていたようです。そうした、時代の必要に応じた幅広い鳥山啓の学問的素養のすべては、和歌山中学で彼に博物(理科・生物学)を学んだ南方熊楠におおきな影響を与えました。熊楠は後年の回想で、鳥山先生が「和漢蘭に通じ…博識だった」と述べています。

 西洋の科学・技術水準を知り、世界の大勢について知るところのあった啓は、幕末の動乱期には開明派の立場から奔走し、そのため安藤家当主の直裕のよく知るところとなったようです。1869(明治2)年、紀州藩の支藩だった田辺が田辺藩となり、田辺藩校が設立されたとき、啓はそこで英語を教えることになりました。1871(明治4)年頃には神戸の英国領事館に勤務し、実地に英語で仕事をしていたといいますから、その語学力は十分だったのでしょう。1872(明治5)年に新しい学制のもと設立された田辺小学校で教師となり、また田辺伝習所教員として教師養成にもつとめました。この頃鳥山は、縁続きだった多屋寿平次らとともに青少年向けの教育読み物や理科系学問(物理学・天文学・自然地理学)の入門書多数を刊行していますが、新しい時代の新しい理科系教育を形作っていった30台の頃の鳥山の事績は、同世代人だった福沢諭吉らの仕事と並んで、近代日本史全体の中でも重要なものといえます。

 1876(明治9)年、和歌山師範学校に着任、1879(明治12)年には新設の和歌山中学で博物学教師となりました。やがて1886(明治19)年には、かぞえ年50歳で上京して華族女学校で理科教授に就任、1906(明治39)年に同校が学習院と統合されたのを機に辞職するまで20年間勤め、その後も東京で余生を過ごしました。

 日本を代表する行進曲として今も広く知られる「軍艦」マーチの詞を書いたのも東京時代の1897(明治30)年ですが、それに先だつ日露戦争時に作詞した「黄海の戦」も、当時は広く知られ、他にも歌曲(琵琶歌、軍歌)のための作詞は多数ありました。長歌、和歌の創作は生涯にわたり、華族女学校の同僚下田歌子(宮中で和歌の指導をし、昭憲皇太后から「歌子」の名を与えられた)とも交流が深かったようです。晩年から没後にかけて、それらの創作(歌と随筆)は『長庚舎歌文集』三冊にまとめられました。長庚とは「夕づつ(宵の明星)」のことで、啓が好んで別号として使った言葉です。

 1914(大正3)年2月、東京の自宅で亡くなる直前に詠んだという辞世の歌が伝えられています。

  草に木に 虫に鳥にも なりぬべし 十まり四つの 元にかへらば

 輪廻転生の無常観と自然科学的世界観が自然に読み込まれた達観の境地を伝えたこの歌は、鳥山啓という人の事績とその生きた時代を象徴しているようです。

【「第32回月例展 熊楠とゆかりの人びと 鳥山啓」より】

 

熊楠と鳥山啓
 熊楠は1879(明治12)年、出来たばかりの和歌山中学(現桐蔭高校)に入学しました。田辺出身の鳥山も、新しい時代の理科教育が出来る稀有の人材として着任していましたが、同じく田辺出身の喜多幅武三郎とここで出会い、生涯の交友をはじめることになったのも、中学校という教育機関が当時まだ草創期で少数しか存在しなかったことのあらわれです。
 博物学教師としてのが熊楠によき薫陶を与えたことを伝える逸話としてもっともよく知られているのは、熊楠自身が書き残した文章よりも、長女文枝さんによって語り伝えられた次のような物語でしょう。

 

 父は年少の頃より蚯蚓が大嫌いであった。それは嘔吐を催す程、怖く気味悪かった。和歌山中学時代の或一日の事、鳥山啓先生に引率されてクラス一同山中に植物採集に行った時、ふと自分の足許に太い蚯蚓が体をくねらせているのを見つけ、思わず悲鳴をあげた。その時鳥山先生が静かに近づかれ、「これから自然科学の道を歩もうとしている君が蚯蚓を恐ろしがって如何するか、今日から蚯蚓に親しむことからはじめなさい」とひどく窘[ルビ・たしな]められた。なる程自分は自然科学が大好きだ、先生のお言葉に間違いなしと肝銘した。家に帰ると、しっかり目を閉じ蚯蚓を掌にのせ、歯を喰いしばり忍耐忍耐と我が心に鞭打ちつつ三分、五分と時をのばしていった。しばらく毎日毎日この動作を繰り返している中に、いつしか蚯蚓を手掴みにする事が出来る様になった。あの瞬間の嬉しさは、いくつになっても忘れることが出来ない。と、同時に鳥山先生の温顔が目に浮かぶのだと、話してくれた。

【南方文枝「父熊楠のプロフィール」】

 

 ほかに、中学時代に熊楠が作成していたノート「動物学」は、複数の異本がありますが、英語の動物学概説書を抄訳し、編輯することで自分自身のための本を作ろうとしたもので、そのテキスト加工の操作自体は、明治初年に鳥山啓自身や福沢諭吉をはじめとする啓蒙思想家多数が行っていた一般向け刊行物と同じ性格のものです。「羽山繁太郎著・南方熊楠閲」と記された編訳書『金石学』(南方熊楠記念館蔵)もまた、鳥山の指導の下で英語文献から直接西洋の自然科学を学んだ産物です。

 鳥山啓の最晩年になる1913(大正2)年、熊楠は宮武外骨の『日刊不二新聞』に「田辺通信」を連載していました。8月17日号の「ダリヤの花」で、ダリアの日本伝来を論じたくだりの中で、「天子牡丹」というダリアの異称に触れたくだりがあります。熊楠にいわせれば、「天子」というあからさまな呼称は当時は不敬に響いたはずで、「てんし」牡丹といっても「天子」つまり天皇・皇帝の意味ではないことばだったに違いないと思い、「念のため予が恩師で元華族女学校教授たりし鳥山啓先生へ問い合わせ」たと記しています。熊楠はこの日の記事ではこの件に対する鳥山の直接の回答を引用して、「纏枝」(枝が込みいっている)であり、決して天子の意味ではないと述べています。また次の8月30日の号では、天長節に飾りとすべき花についての鳥山の他の記述を、長文で引用しています。

 熊楠の日記を見ると、この問い合わせを熊楠がしたのは多分に偶然の出来事がきっかけだったようです。1913(大正2)年2月4日の日記に「午後三時頃、予門に立有る所へ一人通りかかり、南方君といふ。之を尋れば鳥山啓先生の息嶺男氏なり」とあります。札幌の農科大学教授だった鳥山嶺男は応用機械学者で、後には北大の練習船「おしょろ丸二世」の設計もした人ですが、その嶺男が、大学の船で神戸まで行く途中田辺に寄港したということだったようで、「四十分斗り話」をしました。

 その晩、「鳥山氏へ状一つおくる。啓先生に天竺牡丹のこと尋んことを求」たと記述があります。同じ話題を、当時密接に通信していた白井光太郎からも聞くなど、この件についての情報収集の努力を熊楠はかなり前から、手広くしていたのですが、30年まえの旧師鳥山へ照会状を認めたのは、あるいはこの子息嶺男との邂逅がきっかけとなって思いついたことだったかも知れません。なお、この時の鳥山啓宛て南方熊楠書簡は、現在和歌山市立博物館所蔵となっています。余談ですが、この2月4日付南方書簡に対して、鳥山からの返事がきたのは3ヶ月後の5月16日でした。南方も、この書状を実際に読むのに二週間かかっています。「夕鳥山啓先生来状拝読す。本月十六日来着、予多忙にして延しおきたる也」(5月31日付日記)。翌6月1日には、礼状ハガキを出しています。

 偶然ですが、この年暮れには鳥山啓は脳溢血で倒れ、翌1914(大正3)年2月28日に亡くなりました。最晩年の恩師と、学問的きずなを確認することが出来たのは熊楠にとっても、ひょっとすると鳥山にとっても、僥倖だったというべきかも知れません。

 1928(昭和3)年になって熊楠は、堂場武三郎から鳥山と津田出(1832-1905、旧紀州藩士、明治の陸軍軍人)との間で交わされた往復書簡を譲り受けています。委細は不明ですが、恩師の遺墨を熊楠が求めたのかも知れません。津田は晩年には勅選貴族院議員にもなった人で、旧幕時代は紀州藩江戸藩邸で蘭学を教授していた開明派でした。鳥山からの書状は、鳥山の詠んだ歌や、津田からの求めに応じてその歌に手を入れた書簡などが含まれていました。              

【「第32回月例展 熊楠とゆかりの人びと 鳥山啓」より】


台場跡
 扇ヶ浜に広がる松原の一角に幕末、柏木淡水よって黒船来襲に備えた砲台が築かれ、その遺構と周辺が台場公園と呼ばれました(田辺公園・大浜公園ともいう)。1911(明治末)年、町財政の苦境を償うため払い下げられることになり、熊楠らが反対しました。その跡にはカトリック紀伊田辺教会が建っています。

台場(田辺公園)跡

 

田辺公園

写真裏書
 本多静六氏話しといふをきくに、此公園は甚だよき公園なりと。
十五 田辺公園
郡長自分一人の高名にせんとて入りもせぬ女学校を立て、其費用にとて公園を安値一万円で大阪のものに売る。町中の小児等遊び所無くなり大に困る。町民蜂起し毛利清雅といふものと吾輩大将となり抗議し、大騒動の末保安林となる。故に買ふたもの自分の物ながら家建る事も成らず困り居る。但し一万円は町より返債する事なり。此事で郡長甚だ予を面白く思はず。相良といふ県史に芸妓を世話し、相謀りて熊楠を十八日夜入監せしめ、熊楠それが為め眼と足悪くなりこまり居る。
 貴下に差上し、片町夷祠前の空地の写真参照被下度候。