兵生

兵生春日神社(撮影:上田修司)

兵生の廃屋(撮影:上田修司)

兵生
 南方熊楠が中辺路町大字兵生に入ったのは、記録として確認できるのは前後2回、1910(明治43)年と1929(昭和4)年である。明治期の第1回には11月13日~12月24日の40日ほどの長期滞在である。第2回は門弟の小畔四郎の採集につきあっただけで、2泊3日で引き揚げている。
 簡単に兵生の位置を紹介すると、和歌山・奈良県境の安堵山を源とする富田川の最上流にあった。その後二川村の字となり、小学校の分校も開設されたが、1946年さらに中辺路町に合併。1974年には過疎となり、集団移住していまや無住の地となった。
 熊楠から小畔に宛てた書簡によると、交通の不便な地で、最初の入山の時は、栗栖川で1泊し、2日目の夕方に宿泊先へ落ち着くという全行程徒歩であった。しかし1929年には、「今では定期の自動車が集落の入り口である福定まで1日1便通っていて、田辺を朝発てば1時間40分で福定に着き、そこから徒歩約2時間で集落へと、半日もあれば行けるほど便利になった」と書き送っている。

【中瀬喜陽 「熊楠ゆかりの地を訪ねる」 『熊楠ワークス第6号』より】


兵生の宿
 宿については小畔に「坂泰官林の近くに人家はなく、1里半か2里ほど下流に集落はあるが、旅客をとめるような家は1軒もない。わずかに私が20年前に泊まった西徳次郎氏方が当時のままあるのでそこを紹介する」と報じている。しかし1929年には徳次郎氏は亡く、秀次郎氏に代わっていた。
 熊楠が西家に泊まるようになったのは、ここが採集にあたって手引きしてくれた西面欽一郎氏の妻の実家であったからで、1910年の採集では西家に1泊したあと、さらに山中深く入り、安堵山のふもとの野川原にある製板所の一室を借りて、飯場の食事を分け合いながらの植物調査となったのである。


兵生野帳
 宿泊先の事業所の正しい呼び名は鈴木製板所で、豊富な谷水を動力に換え、当時そこに多かったカワキ(トガサワラ)の巨木を柱や板に挽いていた。1899年暮れから営業を開始、1914年までにすべての木を伐り尽くし、あとにスギやヒノキを植えて閉鎖したが、入った当時は昼なお暗い森林だったと西面氏は回想している。熊楠はちょうどその作業の真っ最中に入山したのである。ちなみに言えば、坂泰国有林はその当時まで手つかずで、1931年から大がかりな伐採がはじまり、かくして富田川の水源は荒廃してしまったのである。
 兵生での熊楠の収穫はクマノチョウジゴケをはじめ粘菌、キノコなど予期以上のものだったが、民俗、風習、伝説などでもまた得るところが多く、後年柳田國男に、『遠野物語』に似せた『兵生物語』を書いて世話になった家へ残してきた、と述べている。
 この稿本は今日所在はわからないが、熊楠のノート「随聞録」などには破素を望んで少年を追いかける少女の話や、渡り木地師たちの伝承、火事の時に火を伏せる呪言、真夜中の山中で馬のいななきを伏せた話など、熊楠好みの妖怪譚が書き留められている。後年「巨樹の翁の話」を教えてくれた西面導氏(後、寒川導)は欽一郎の弟で、この山小屋でひとつ釜の飯を分け合った仲であった。山を去る日、茶碗酒を何回かお替わりしてぶっ倒れ、道の途中で西氏方へかつぎ込まれたり、自身の話題もいっぱい残したが、いまはそれを伝える人さえもいない。

【中瀬喜陽 「熊楠ゆかりの地を訪ねる」『熊楠ワークス第6号』より】

柳田國男宛書簡 (1911年4月22日付)
(前略)
 西牟婁郡兵生(二川村の大字、ここに当国第一の難所安堵が峰あり、護良親王ここまで逃げのびたまい安堵せるゆえ安堵が峰という、と)、ここにて聞きしに、むかし数人あり、爐辺におりしに、畏ろしさに耐えずみな去り、一人のみ残る。婆来たり、米三升炊げ、という。よって炊ぐうち、熊野道者来たりければ、右の婆大いに惧れ去る。道者右の人を導き安全の所に至らしめ、右の婆は山婆にて米炊ぎ上がった上、汝を飯にそえて食わんとて来たりしなり。われは熊野権現、汝を助くるなりとて去りしという。この話、朦朧として分からねど、かかる話、他国にもあるよう記臆致し候。
 この安堵が峰にいろいろの談あり。みな些断のものに候。兵生の松若とて、生きながら山に入って今に死せぬもののことを伝う。その宅址という地もあり。松若、少小より山中に入り、鹿などをとり生食す。身に松脂をぬり、兵刃荆棘傷つくること能わず、ついに山に入って家に帰らず。人山を行って薯蕷が何の苦もなく地より深く抜き去られたるを見て、その存在を知る。最後に山に入るとき、「もし大事あらば多人数大声にわれを呼べ、われまさに千人の力をもって援助すべし」とのことなり。あるいは言う、有田郡に小松弥助とて平維盛の裔あり。松若その家に遊べり、と(この間非常の深山重畳せり)。明治十二年ごろ、当郡富田村のシャ川という所の僧、兵生にゆき、村社に籠り七日断食し、時々生瓜などを食らうのみ。さて、われ今日松若を招かんとて安堵が峰を望み、「松若やーい」と呼び、村民一同これに和して呼ぶ。婦女、小児は、松若来たるとておそれ、戸を閉じて出でず。件の僧、安堵が峰に今松若現われたり、それそれそこに見えるなどいう。終日呼べども、終に下り来たらず。僧、悲憤、村に帰り死せりという。そのとき大呼せし人、今も存せり。

【『南方熊楠全集 8』(平凡社)より】


廃村兵生の今昔
 田辺市中辺路町の兵生は難読の地名である。これをヒョウゼイと読み、ヒョウゼとも言う。ここは富田川の最上流部に位置し、奈良県十津川村を隔てる果無山脈の麓に当たる。近世初期から30余戸の家が散在して村を形成し、背後に豊富な森林をひかえる土地であった。
 1955(昭和30)年には戸数45戸に及んだが、交通の便が悪く、生活の不自由な奥地だけに、その後過疎化が進み、1974(昭和49)年4月には集落再編成事業で、当時残っていた26戸75人が、中辺路町川合の朝来平に集団移転し、無住の地になってしまった。小・中学校の分校も当然廃校になった。広大な国有の原始林も、昭和30年代にすでに伐り尽くされていた。
 兵生はいま山中の廃墟の地と化し、芭蕉の奥州高館での句をもじれば、「杉立つや山民どもが夢の跡」である。

兵生のいま
 今年の陽春の1日、兵生から朝来平に出てきている福田博亮氏に案内してもらって、福定から林道をのぼり、兵生を概観して回った。
 対岸の高いところに集落があったという高串は、つり橋が危険で渡れず、訪れなかったが、それ以外の住居のあった地区は、だいたい歩いてみた。かつて寺や分校の存在した宮代垣内は別として、どこも川の両岸の山腹を階段状に切り開き、そこに小さい集落を形成していたのであるが、いまは家の建物は、ごくわずかが倒れかかったりして残っている程度で、ほとんどの屋敷跡や耕地のあとに、立ち去る際に植えた杉の木が立ち並んでいる。しかし、どこも成育があまりかんばしくなく、用材として役立つものになるか疑問に思われる。
 宮代の福泉寺のあったあたりは、寺跡もわかりにくく、墓地も移されたあとが荒れた状態である。寺の境内にあった「大勢至菩薩」と刻んだ碑は、1752(宝暦2)年に江戸の太蔭という僧が建てたもので、これは朝来平に移され、そのあとに少し小さく同じ文字を刻んだ碑を、旧住民一同として1981(昭和56)年に建てている。寺跡の手前の兵生分校は、入口近くに「兵生分校跡」としたごく小さな碑が草に埋もれかかっているのと、校舎の屋根と柱が残って、中ががらんどうになっているのは、県下の廃校の写真集『さらば学舎』(写真 中川秀典、文 宇江敏勝、1990年刊)に収められた3枚の写真と、ほとんど変わりがない。
 いま、兵生で旧態を保って人目を引くのは、林道端にある春日神社の社殿とその境内である。もう一つの「小督司大明神」を祀る神社も、似たような状態である。廃墟の旧村のなかで、この2社だけが息づいている感じで、かつての住民たちが故地の神への信仰をつづけていることをうかがわせる。兵生の人々が、何百年もの間土地と山林を相手にして営々として刻んできた歴史が終わり、住民のここでの生活が終息してすでに33年、いま兵生は自然のなかに埋没しようとしている。

【杉中浩一郎「廃村兵生の今昔」『紀南・地名と風土研究会会報 第41号』(平成19年7月15日発行)より】
【『南紀熊野の諸相』清文堂(平成24年5月発行)にも再掲】

兵生の小越の瀬にある小さな祠(撮影:上田修司)

坂泰隧道付近より見る兵生の山並み(撮影:上田修司)