南方熊楠顕彰館 第2回特別企画展(終了)


イベント詳細


『さとがえり展 「南方熊楠 -森羅万象の探求者-」』

ご好評につき、5月13日(日)まで会期を延長しました。
是非、この機会をお見過ごしのないようご観覧ください。

ごあいさつ

南方熊楠顕彰館にいて、最近しきりに感じることは、いま再び先年のような南方熊楠ブームが静かな中に胎動しているという予感である。本館も昨年5月開館以来、9ヶ月目で入館1万人を突破した。それも皆様方の熱い思いの結晶である。謹んでお礼を申し上げたい。
さて、当館では、これまで熊楠資料の時々の公開と展示の機会として、「月例展」、「第1回特別企画展(寄贈寄託資料展)」等を重ねてきた。今回の「第2回特別企画展」も、その一環として、昨年秋、東京・上野の国立科学博物館で開かれた「日本の科学者技術者展シリーズ」のひとつ「南方熊楠 -森羅万象の探求者-」展で好評を博した展示資料を一部内容を変更して、当館所蔵資料を中心に、地元の皆様、そしてご来館の皆様にご覧に入れようとするものである。
東京での展示会場には、連日大勢の入場者があって、この種の催しとしては、異例という評価をいただき、会期中には、皇后陛下の行啓、常陸宮殿下のお成りもあった。本展はそうした展示の一部を当館の狭い会場ながらご覧に入れようとする趣向である。
これによって、異色・異端と評される南方熊楠の、博物学、民俗学等の分野における近代日本の先駆者的存在であると同時に植物学、特に「隠花植物」と呼ばれていた蘚苔類・藻類・地衣類・菌類・変形菌類(粘菌類)の日本における初期の代表的な研究者、科学者としての真面目を発見していただければ幸いである。
終わりに、展示にあたってご協力いただいた方々に厚く御礼申し上げたい。

平成19年3月
館 長  中 瀬 喜 陽

【各コーナーの展示紹介①:和歌山から東京へ】
13歳の時に書き上げた『動物学』に「英国諸書を参校し漢書倭書を比て」、つまり、英語の本を参考にして漢文や日本文の本と見比べながら作った自作の教科書の序文には、「宇宙間物体森羅万象にして…実に涯限あらざるなり」とあり、博物学に志した少年熊楠の気概を示していた和歌山時代から、「授業など心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書物を読みたり」という生活だった大学予備門(現在の東京大学教養学部)についての解説パネルと、関連する所蔵資料を展示しています。
主な展示品は、本草綱目(原本と自筆抜書)、日記(明治14年・同22年)、訓蒙図彙(蔵書)、予備門時代ノート、他

【各コーナーの展示紹介②:米英学問修行】
熊楠は19歳から33歳までの約14年間にわたって、アメリカと英国での学問生活を送ります。このことは、幼い頃から蓄積してきた東アジアの博物学の知識に加えて、西洋の思想や科学を長期間、実地に吸収する機会を熊楠に与えました。東西の文献を調べて英語と日本語で論文を発表し、自分は「日本人の世界研究者」だと後になって豪語した熊楠の幅広い学問的能力と一つの文化圏にかたよらない幅広い視野が身につけられた、この米英での学問修行に関する資料を展示しています。
主な展示品は、ロンドン抜書(十巻、五十一巻)、Nature(1893年10月5日号)他

【各コーナーの展示紹介③:那智の森】
英国を離れるにあたって、大英博物館の植物学者ジョージ・モレーから「日本の隠花植物の研究をしてほしい」と依頼された熊楠は、帰国して和歌山で植物研究を開始します。そして一年後には熊野の地へ、当時原生林として深い森を残していた那智へと向かいました。暖温帯性照葉樹や清冽な水、湿った豊かな土、そこに棲息する昆虫、動物などから構成される那智の森で熊楠は思う存分植物採集に明け暮れます。
隠花植物研究を進めながら、和漢洋の書物を読み、さまざまな人々と手紙をやりとりしてその思想を深めた時代に関する資料を展示しています。
主な展示品は、日記(明治37年)、描画道具入り採集籠、土宜法龍宛書簡(複製)、他

【各コーナーの展示紹介④:隠花植物の研究】
子供の頃から博物学に異常なほどの興味を示した南方熊楠は、在米時代にスイスの大博物学者ゲスナーの伝記を読み、「日本のゲスナー」になりたいと日記に書きました。その後、シカゴ在住のアマチュア菌学者カルキンスと知り合い、地衣と菌の研究の手ほどきを受けました。1900年にロンドンから帰国する際、大英博物館の隠花植物学者マレー(George R. M. Murray, 1858-1911)に日本ではまだ調査の進んでいない隠花植物の研究を勧められたのでした。熊野の地での生物調査の対象は、動物から植物まで幅広いものの、中心は隠花植物と呼ばれたコケ、地衣、藻、菌などで、特にキノコと微小な淡水藻を熱心に集め、死ぬまで情熱を注いだ、その研究に関する資料を展示しています。
主な展示品は、植物学雑誌(第22巻、第29巻)、A.リスターからの手紙、ミナカタホコリ原図、他

【各コーナー紹介⑤:昭和天皇と熊楠】
昭和天皇(1900-1989)は、幼少の頃から植物や動物に興味を持っていました。1925年、赤坂離宮内苑に生物学御研究室が創設され、御用係として採用された服部広太郎から生物学の手ほどきを受けました。赤坂離宮で変形菌を見つけて関心を示されたことから、服部は小畔四郎に変形菌標本の献上を要請し、小畔は1926年に熊楠が選定した90点を献上しました。これをきっかけに昭和天皇は、余暇を利用して変形菌の研究を始め、5新種3新変種を発見し、1935年には服部との共同研究の成果として『那須産変形菌類図説』を出版しました。熊楠は、生涯の喜びとなった田辺湾におけるご進講の翌年に、行幸1周年を記念して神島に歌碑を建立しました。

【各コーナー紹介⑥:民俗学の研究】
熊楠の民俗学分野での代表的著述である『十二支考』は、1914(大正三)年寅歳一月の「寅に関する史話と伝説、民俗」を始めとし、10年間38ヶ月間にわたって、当時もっとも広範な読者を持った総合雑誌「太陽」に連載され、熊楠の名を人々に知らせることとなりました。「十二支」のうち、関東大震災の余波で「鼠」は原稿がありながら掲載されず、「牛」はついに書かれなかったと考えられています。『十二支考』は熊楠にとって初の商業雑誌への寄稿であり、入念な準備がなされたことが、残された「腹稿」の存在からもわかります。また民俗学研究においては、柳田國男と多数の書簡を交わして互いに影響しあい、この交流が南方二書として後に結実します。
これらの民俗学の研究に関する資料を展示しています。
主な展示品は、太陽(20巻8号)、太陽 原稿(太陽未掲載の「鼠」に関するもの)、他

【各コーナー紹介⑦:田辺での研究生活】
熊野・那智山付近での研究を終えて1904年(明治37年)10月6日に那智市野々を出た熊楠は、10日に口熊野と呼ばれる田辺を訪れました。田辺の町は、気候も穏やかで物価も安くまた多くの友人の助けが得られるなど研究をする上で都合が良く、1906年に当地にある闘鶏神社の神官の四女、田村まつゑと結婚して定住することとなります。熊楠は田辺市内の神社林や周辺の森を主なフィールドとし植物研究を続け、その後死ぬまで田辺の町を離れることはありませんでした。
この田辺での研究や生活について展示しています。
主な展示品は、南方熊楠邸復元模型、当時の写真、他

【そのほかの展示コーナー】
「履歴書」、「神社合祀反対運動」、「神島の保全」、「晩年」、「各種標本類」等、熊楠の生涯と在野であり続けた学者としての業績等を、12のコーナーに分け、解説パネルと関連する所蔵資料を展示しています。展示品は、資料保存上、日頃簡単に見ることのできない収蔵品が約100点で、熊楠の直筆や愛用した名残をとどめる道具等となっている。どれも、熊楠の人となりがうかがえ、また、熊楠の研究への情熱などに思いをはせてもらえるものばかりです。また、解説パネルもわかりやすく構成され(ルビ入りで、小学生の方も読むことができます)、じっくりと解説パネルを読みながら、展示品をみると、熊楠の知らなかった一面を発見できるかもしれません。是非、この機会をお見過ごしのなく、ご観覧ください。特に、「行きたかったのに、国立科学博物館(東京・上野)での展示を観ることができなかった」という方は、ご来観ください。

開 催 要 項

1.主   催・・・南方熊楠顕彰館
2.企画運営・・・南方熊楠顕彰会
3.特別協力・・・独立行政法人国立科学博物館
4.協   力・・・栂尾山・高山寺、(財)南方熊楠記念館
5.開催日程・・・平成19年3月10日(土) ~ 5月13日(日)
6.開催場所・・・南方熊楠顕彰館 (和歌山県田辺市中屋敷町36番地)
7.観 覧 料・・・無 料