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顕彰館へようこそ
南方熊楠顕彰館の主な収蔵品
 南方熊楠顕彰館の資料は南方熊楠邸内のものを一切移したもので、熊楠手沢本、稿本、関係書簡等南方研究の核となるべき中心的な資料群です。その性質上写真、複製等で間に合うものは出来るだけそれでお願いしたいのと、利用の前にあらかじめ、希望の資料名をお申込みいただいて準備する時間があれば幸いです。そのために、『南方熊楠邸蔵書目録』、『南方熊楠邸資料目録』等によって資料名をよくお調べ下さい。そうしたことを前提に、以下当館の主な収蔵品をご紹介します。

(1)ロンドン抜書(1895〜1900)
 南方熊楠が巨大な博識と、幅広い文明観を持つに至ったのは、実に5年の年月を費やし、全52巻におよぶこの抜書きの作業を通してのことであった。熊楠が抜書の最初のページに筆を下ろしたのは、1895年5月2日のことであった。満27才、アメリカ放浪を終えてロンドンに到着してから、2年半が経過していた。若き日の熊楠はこの作業を完成させるために自らの情熱のありったけをかけた。ロンドン抜書は南方熊楠という思想家が誕生するすべての過程を閉じ籠めた記録である。毎日、5時間から7時間大英博物館で過ごしており、その時間の多くが抜書きに費やされたと思われる。ロンドン抜書は異邦にあった熊楠が自分が成し遂げるべき「大事」として構想されたものであった。52冊のノートは英・仏・独語で書かれた民俗学・博物学・旅行記の筆写からなっているが、世界各地を旅行した冒険家たちの旅行記や現地での観察者による地誌が世界を網羅する形で取り入れられており、世界の民俗風習の大事典となっている。

(2)田辺抜書
 明治37年(1904)10月から田辺に定住後、熊楠は戸外での植物採集や調査、執筆、そして明治42年からは神社合祀の反対運動に取り組むが、家にあっては筆録を怠らず、「田辺抜書」と題する筆記帳にたえず毛筆で筆写を続けており、明治44年から田辺の法輪寺の「大蔵経」を借用して通覧し、その中から彼の学門に必要と思われる部分の索引を作り始め、それが大正2年(1913)に終わると、つぎには「アラビアン・ナイト」の索引作りを始めるといった具合である。「田辺抜書」は和紙の罫紙の一行に、二行ずつ米粒大の細字で書かれたもので、晩年まで続けられ、35字詰20行40頁のノートが61冊に上る。

(3)日記
 熊楠の日記でまとまって残っているのは、明治18年(1885)以降である。東京大学予備門在学中の1885年(明治18)から、没年の1941年(昭和16)まで、すべて南方家に保管されてきた。
 その文字量は膨大であり、きわめて難読であるため、一部の日記が紹介されるにとどまってきたが、熊楠生誕120年記念として、八坂書房より青壮年期(1885年〜1913年・1987年)の日記が刊行され、未刊の大正3年以降については、現在研究グループを組織し、翻字の作業中である。

(4)備忘録
 明治16年3月の備忘録。熊楠の当時の金銭の出納に対する意識がうかがえる。

(5)書簡(南方二書・履歴書・上松蓊宛 最後のハガキ・柳田国男宛)

<南方二書>
 東大植物学教授であった松村任三(1856〜1928)宛の二通の長文の手紙(手紙は明治44年8月29日と31日に書かれている)である。手紙という形であるが、これは熊楠の「熊野の森」物語である。明治44年(1911)9月、二通の手紙は柳田国男の手によって刊行され、志賀重昂ら数十名の識者に配布された。全国でも強力に神社合祀が進められていた三重県と和歌山県下の現状を具体的に詳しく報ぜられている。

<履歴書(矢吹義夫宛書簡)>
 大正14年1月31日・2月2日付の書簡の通称で、日本郵船K.K.大阪支店副長の矢吹氏が設立準備中の南方植物研究所の基金募集に協力するために熊楠の略歴を求めたものに対する返書で7.80m巻紙に細字でしたためられている。自伝文学の傑作といわれている。
 
<上松蓊宛書簡>
 上松は新潟県長岡出身で、古河鉱業の門司支店長を務めたが、薬草や香道に詳しく、書を能くし、摂政宮への粘菌標本献上にあたっては、その表啓文を浄書した。上松が熊楠の名を知ったのは少年期であったが、直接の交流は同郷の友人である小畔四郎の紹介によるもので、現存の上松宛書簡の最初が1914年(大正3)12月9日付(上松39才)である。現存約500通。筆記具、顕微鏡、書籍の購入など熊楠の手足となってよく尽くしている。上松書簡は伝記的資料に富む。上松は小畔四郎・平沼大三郎と共に熊楠門の三羽烏と称せられた。

(6)雑誌
 熊楠がよく寄稿した雑誌には、飛弾史壇(飛弾史談会)、ドルメン(岡書院)、俚俗と民譚(単美社)、民俗学(民俗学会)、旅と伝説(三元社)、土俗と伝説(文武堂店)、土のいろ(浜松子供協会土のいろ社)、土の鈴(土の鈴会)、民俗(人文社)、日本及日本人(政教社)、此花(雅俗文庫)、不二(不二新聞社)、人生(人性学会)、太陽(博文館)、現代(大日本雄弁会)、グロテスク(文芸市場社)、性(天下堂書房)、考古学雑誌(考古学会)、民俗(民俗発行所)、動物文学(白日荘)、昔話研究(三元社)、山岳(日本山岳会事務所)、東京人類学会雑誌・人類学雑誌(東京人類学会)、植物学雑誌(東京植物学会)、東洋学芸雑誌(東洋学芸社)、集古会記事・集古会誌(集古会)、変態心理(日本精神医学会)、彗星、江戸生活研究(春陽堂)、性之研究(性之研究会)、風俗(風俗社)、赤本屋(阿伽梵書店)、民俗と歴史(日本学術普及会)、紀伊郷土研究(紀伊郷土研究社)、郷土研究(郷土研究社)、紀伊史料(紀伊史料会)等がある。こうした形で当時の雑誌が残っているのは珍しいといわれる。

(7)家族写真
 明治39年7月、熊楠は和歌山中学時代からの親友で田辺町で開業医をしていた喜多幅武三郎の媒酌で、闘鶏神社の宮司田村宗造の四女(明治12年生)の松枝と結婚した。翌40年3月、松枝入籍。6月、長男熊弥出生。明治44年10月、長女文枝出生。
 熊弥が生まれるまで、熊楠は、よく遊びに来る野田家の猫にチョボ六の愛称を贈っていたが、熊弥が生まれて間もなく、チョボ六はチョコ六と改まり熊弥の愛称となった。父母の愛と知友の期待につつまれて成長した長男熊弥が突然発病したのは、大正14年3月高校受験に出かけていた高知でのことであった。以後、病勢はついに回復せず昭和35年2月18日生涯を閉じた。妹の文枝は「とてもやさしい兄でした」と語っている。

(8)ロンドン戯画
 1903年(明治36)2月10・11日に、那智山麓大阪屋から田辺の素封家多屋寿平次の二女たかにあてたもの。「正月祝ひに絵ハガキ一つ差上候。委細は勝つ長(注、兄多屋勝四郎)より御聞取下されたく候」として二枚続きの絵はがきを贈った。
 ロンドン時代の戯画でシルクハットをかぶっているのが熊楠。眼帯は栗原金太郎、それに骨董店主加藤章造。 
 同年の2月9日、那智山麓市野々の大阪屋に移っていた熊楠は、突然たかから手紙を受け取った。熊楠は同日夜、ただちに長文の返書を書いた。更に翌10日にはパブの様子を描いたロンドン生活戯画のはがき、11日も、「鳥の足のあとも定かに見えぬ迄にこひにけらしなわれならなくに」と歌を記し、今日より柚柴の和尚と自ら呼ぶことと致す、と述べた葉書を送っている。たかも、この長文書簡と二通の葉書に対する礼状を14日夜にしたためている。

(9)ミナカテラ・ロンギフィラ彩色図
1916(大正5)年5月、熊楠は田辺の中屋敷町36に約400坪の家を求めて移り住んだ。終(つい)の住処となった、ここ現南方熊楠邸の庭は、それ以来彼の研究の場となった。当時、粘菌(変形菌)は、腐朽した木にのみ発生するとされていたが、熊楠は生きた樹木の上にも粘菌がつくことに気付いた。1917(大正6)年8月、この庭の柿の木の上で彼が見出した粘菌は、イギリスの研究者G・リスターによって新属に認定され、彼の名前を元にミナカテルラ・ロンギフィラと命名された。リスターが記念に南方に贈った、自筆の観察図が南方邸資料の中に遺されている。

(10)採集用具
 1900年(明治33)イギリスから帰国した熊楠は、翌年10月より熊野にて足掛け3年、約21ヶ月におよぶ植物調査を行った。多くの顕花植物とシダやコケも採集したが、淡水藻を採集し、顕微鏡で観察するためのプレパラート標本を多数作ったことが日記にしばしば出てくる。熊楠がとくに研究した粘菌、キノコ、藻は隠花植物と呼ばれている。隠花植物には他にバクテリア、地衣、コケ、シダが含まれる。南方の隠花植物研究の中で特筆されるのは粘菌であったが、他にも多くの標本がのこされている。
 熊楠の植物採集用具としては、胴乱や籠、短冊、描画道具入り採集籠等が知られている。隠花植物調査はたいてい長期にわたり、山小屋を借りて採集標本を図記するため、絵の具等は欠かせない道具であった。

(11)書庫内収蔵状況
 顕彰館内の収蔵庫の面積は約120平方メートルで、蔵書・資料保存整理用の棚約300、抽斗(引き出し)320、標本類保存整理用の棚40、マープケース(抽斗棚)13、隣接の予備室(約26平方メートル)は資料調査室に利用される。
 蔵書は、洋書1762冊、中国書230冊、和古書323冊、和書1497冊で、全3812冊。資料として、直筆資料628点、原稿1247点、書簡145点、来簡5714点、関係資料(写本・書画・写真等)2066点、雑誌・抜刷807点、新聞切抜2164点で、全12771点を収蔵している。
 全所蔵資料にID番号(通し番号)を付与し、収蔵庫内書架の棚部分に「南方熊楠邸蔵書目録」記載資料を、(1)中国書、(2)和古書(和綴)、(3)和書(洋装)、(4)洋書の順に配架し、「南方熊楠邸資料目録」記載資料の直筆資料等については、主に引き出し部分に納めている。

(12)羽山繁太郎宛写真と裏書
 1886年(明治19)2月、予備門を退き和歌山に帰郷した熊楠は、友人との旧交をあたためたり、動植物の採集をしたりして日を送っていたが、4月には羽山繁太郎の招きに応じて日高郡に遊び、父の故郷入野村を訪ねている。羽山家は日高郡塩屋浦の医家で、熊楠は長男繁太郎、次男蕃次郎ととくに親しくしていた。兄は大阪医学校、弟は東京医科大学を、ともに中退して夭折した。熊楠の外遊中のことである。
 明治19年10月13日に、ようやく父兄から米国行の許可を得た熊楠は、羽山繁太郎を訪ねて訣別し、入野村の親戚にも告別の挨拶をした。26日には和歌山の松寿亭で友人たちによる送別会が開かれる。熊楠は演説の中ですでに渡欧の意図をもらしている。明治19年12月15日付の繁太郎に贈った肖像写真の裏書きには、「僕も是から勉強をつんで 洋行すました其後は ふるあめりかを跡に見て 晴る日の本立帰り 一大事業をなした後 天下の男といはれたい」とある。

(13)在米時代の切手帳
 熊楠蒐集の切手帳は1887年(明治20)前後のもの1冊(88頁)、1888年のものと思われる1冊(91頁)がある。明治20年3月26日の日記には「本日迄集る所、郵券は311枚、46ヶ国也」とあり、昭和2年(1927)には「貼る所の郵便切手として2冊合わせて2229枚」と記している。
 切手帳の序文には、「金門の月はこの夕べ如何、道近しといえども到るあたわず。費府の花は今日如何、道遠くして往くあたはず。耳に入るは日々ケイブルカーの音、眼に触るは夜々電燈の光。厳しく名利に羈せられて汗垢を忍ぶ殊方異域のことにしあれば、親しく訪はるる友すくなく、?中黄白惜しむに堪えたれば、いたずらになげうちて青州従事(酒の異称)を覓るを得ず、只此一小冊、時々取出して打かへして見るに、よく我をして余念なきに至らしむるは、今の我身の小仙窟なるかも。
 音にきく国ぐにぶりをひとながめ
 明治弐拾歳参月弐拾七日夜八時過 米国桑港スチブソン街羈客 日本紀伊人 南方熊楠」とある。

(14)原稿
 熊楠は1892年(明治26)ロンドンで雑誌寄稿による著述活動をはじめた。初期の10年間はすべて英文である。日本の雑誌への継続的な寄稿がはじまるのは1907年(明治40)以降である。
 熊楠の生前の著書(単行本)は、『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』の三冊だけで、いずれも雑誌掲載の論文を集めたものである。
 寄稿した雑誌(前掲写真参照)は44誌に達するが、「太陽」に連載した十二支の動物にちなんだ話(いわゆる「十二支考」)は最も著名である。熊楠の日記や書簡の字は相当難読だが、原稿はていねいに書かれていて読みやすい。他人の論文を読んで新説、新資料を補強する短文の場合は、葉書で投稿することが多かった。また活字になった自分の論文にもこまごまと補遺や追記を書き入れている。

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